悠々人生エッセイ



母の葬儀




1.母の晩年

 私の母は、今年で94歳になった。我が家の家系図は江戸の文化文政期以来揃っているが、それを丹念に調べて行くと、最長寿は大正時代に80歳で亡くなったご先祖さま(女性)である。これが数え年だとしても満79歳だから、私の母は、我が家の長命記録を日々更新していたことになる。

 今から12年前に、父が亡くなり、それ以来、母は一人、自宅で過ごしてきた。デイサービスを週に3回ほど受け、お喋りや折り紙をし、お昼をご馳走になり、風呂にも入らせてもらった。そのほか、幸い、妹二人が近くに家を構えていることから、その二人が代わりばんこに訪れて、おかずを届けたり話し相手になったりして見守ってくれていたから、私は安心していた。

 二人とも、交換日記のようなノートを備えて、「今日のママさんの様子はこうだった。どんなおかずを持って行ったか、どんな話をしたか」などと、克明に記録に残してお互いの連絡を密にし、本当によくお世話をしていてくれた。

 もっとも、ある日、妹が弁当を届けても、それを食べた様子がない。おかしいと思って台所のゴミ箱を見てみたら、そこには超特大のどら焼きの袋があった。だから、近所のスーパーにこんなものを買いに行く気力があるのかと安堵したそうだ。

 その母に異変が起こったのは、3年前の秋のことである。妹の一人と食事中にお箸を取り落とした。左手に力が入らないようなので、心配した妹がその夜は一緒に泊まった。すると翌朝になると、左足がもう麻痺していて全く動けなくなっていたという。慌てて救急車で病院に運んだら、脳梗塞だった。

 もうtPAには間に合わないが、幸い障害の程度はあまり深刻なものではない。左手と左足に不自由さが残ったものの、歩行訓練などをすれば、また歩けると言われて、訓練の日々を過ごした。しかしながら、もう90歳を超えていることから、捗々しい進展はなく、結局は車椅子生活となってしまった。

 となれば、これまでのように一人暮らしをしてもらうというのは無理なので、実家近くの老人ホームを探した。すると適当なところが運良く見つかったので、そちらに入居してもらった。私の父の年金の額がそれなりにあったので、月々の支払いは、十分に賄えた。


2.新型コロナ禍の老人ホーム

 それから3年が経った。母は、老人ホームで大切にされていたので、私たちは安心していた。ところが、たまたま新型コロナ禍の時期と重なり、面会が出来なくなった。わずかに、病院に連れて行く時だけ会えるものの、それ以外の面会は断られた。

 しかしながら、家族の要望で、1年ほど経ってLINEで面会させてくれることになった。それも、わずか15分間だけ許された。時間になって私が画面を覗くと、母が出た。すると、「ああ、お兄ちゃん」と言って泣き始めたので、困った。それから、こちらの様子、特に子供たちのこととか、孫の写真を見せたりした。「ああ、ああ、そうかい、そうかい、良かったね」と答えていたので、喜んでいたと思う。直接の面会には遠く及ばないが、まあそれなりに役に立った。とりわけ私のように遠隔地に住んでいると、本当に助かる。


3.母と最後の面会

 7月の猛暑の時期、母の食欲が落ちたという話を聞いた。そうしているうちに、日曜日の夜、下の妹から電話がかかってきた。「老人ホームから『ママさんが食事が喉を通らなくなった』と、連絡があったので、行ってみたら、もうガリガリにやせ細っていて、しきりにお兄ちゃんに会いたがっている」ということだった。それを聞いて胸騒ぎがし、「では、明日行くから、老人ホームに連絡しておいて」と伝えた。

 そして翌朝、北陸新幹線に飛び乗って、日帰りで郷里に帰った。そのまま下の妹の運転する車で老人ホームに行き、母に面会した。先週来、あまり食事が喉を通らないようで、見るからにガリガリに痩せていた。しかし、意識はしっかりしていて、私の手を握って笑顔を作り「お兄ちゃん、遠いところをよく来てくれたねぇ」といい、「あれ、あの子いないわね」と気にしていた。ちなみに「あの子」とは、上の妹で、そのすぐ後に二人の子供を連れて三人で会いに行ったようだ。

 という顛末だったので、私はやや安心して東京に帰ってきた。ところが、その次の日の火曜日、午前中は係員とにこやかに話をしていたそうだが、午後になって血圧が60に下がるなど、体調が急変したそうだ。そしてそのまま、午後9時19分、永眠した。

 母のエピソードを思い出すたびに懐かしいという気分を超えて、悲しくなる。その一方で、翌日、まるで入れ替わるように下の妹の長男のところに、第一子が誕生した。皆で葬儀の合間にその赤ちゃんのビデオを見て、口々に「髪の毛フサフサだね」、「可愛いね」、「顔がツルツルして素敵」、「大きな子だね」、「朝に破水してもうお昼に誕生するなんて、赤ちゃんはストレスが少なかったろうけど、その分、お母さんには負担だったろうね」などと話していて、この明るい話題があったから、あたかも「悲しみが中和された」ようなものだった。



4.母の葬儀

 母の通夜は27日、葬儀は28日に行われることとなった。完全な家族葬とし、親類で呼ぶのは本家の長男だけにした。東京からは、私と長男だけだったが、それでも合わせて16人と、かなりの数である。27日の午後に私は用事があったので、セレモニーホールに着いたのは、午後9時を回っていた。すると、下の妹の一家が待っていてくれて、ひとしきり話や打ち合わせをした。その後、皆帰ってしまったので、母の棺と私一人が残った。「まさに通夜だな、、、これが長男の役目か」と思い、そのまま一夜を明かした。

 翌朝、家族親戚が一堂に会した。12年前の父の葬儀の時に来てくれたお坊さんが、また来てくれて、読経してくれた。その合間に、私は喪主として、次のような挨拶を行った

皆様、本日は記録的な猛暑の中にもかかわらず、私どもの母の葬儀にご参集頂きまして、誠にありがとうございます。

 母は、昭和4年1月2日に生まれ、一昨々日の25日に息を引き取り、94歳7ヶ月の生涯を終えました。若い頃は、太平洋戦争のまっただ中、高等女学校の生徒だった頃に病気で父親を亡くし、大変だったと聞いております。ところが、たまたま銀行に就職して、父と職場結婚してからは、人生が上向いたと思います。

 とても、快活で社交的な人柄だったものですから、子供の手が離れてからは、好きな着物を仕事にして着付け教室を主宰したり、その縁で海外旅行に頻繁に出かけました。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、シンガポールなどです。中でもハワイで浴衣を着て盆踊りを踊る催しには、確か十数回参加したと聞いております。

 私の父が、全国を転勤して回る銀行勤務を終えて、故郷であるこの北陸の町に居を構えてからは、近所に住む私の妹たち一家と、時々帰省する私の一家とが集まって、ワイワイガヤガヤと皆で食事するのを何よりも楽しみにしていました。美しい花が好きで、よく玄関に飾っておりました。

 そういう母ですが、12年前に、配偶者である父を亡くしてからは、一人暮らしとなりました。二人の妹がかわりばんこに訪ねて、おかずを届けたり話し相手になったりしてくれていたのですが、3年前に軽い脳梗塞を起こしたのをきっかけに、老人ホームにお世話になり、今日に至ったわけです。

 実は、母が亡くなる二日前に、妹から「お母さん、食が細くなってきた。私が会いに行くと、『お兄ちゃんに会いたい』と言っていた」と聞き、私はすぐ次の日に会いに行きました。すると母は、「お兄ちゃん、遠いところ、よく来てくれたねぇ」と言って、私の手を握ってくれました。その次の日に亡くなったわけです。まるで、私に会うまで、亡くなるのを待っていてくれたのかもしれません。最後まで律儀で、頭脳明晰な人で、皆様のおかげで天寿を全うしたと思います。

 そういうわけで、私どもは、もちろん悲しみは尽きないのですが、その反面、このような立派な母に育てられて本当に良かったと、しみじみと感じております。

 本日は、参列して頂き、かつまた暖かいお悔やみの言葉を掛けて頂き、心から感謝いたします。本当にありがとうございました。



5.母の思い出

(1)実は、この挨拶には含めていないが、母を巡るエピソードは尽きない。その一つに、富士登山の話がある。これは、今思い返しても、いやぁ、、、あれはすごかった。

 母が70歳代の半ば頃、突然、「富士山に登りたい」と言いだした。皆が呆れているうちに、着々と準備を始めた。孫娘にトラッキングシューズを借りて、近くの田んぼを何周かしだした。そして、富士登山のツアーに申し込んだのである。

 ここでやっと、本気だとわかり、皆で止めようとした。私はその時50歳代の半ばだったが、「もう私も良い年なのだから、万が一のことがあったら助けに行けないから、やめてくださいよ」と頼んだものの、「いや、大丈夫、大丈夫」と言われて、絶対に曲げようとしない。母が言い出したら聞かないことを皆知っているから、呆れて見守るしかなかった。

 面白かったのは、父の反応だった。止められないと分かった時、今度は助けることに熱心になってきた。色々な登山グッズを買ってきて、母に渡している。その中に、酸素ボンベがあったのにはビックリした。ボンベと称していてもカセットコンロに差し込むあのカセットくらいのもので、酸素があるといっても、吸い込んだらたぶん数分間も持たないと思うのだが、それを2本、渡していた。きっと父なりの愛情の示し方だったのだろう。

(2)そういうことで、準備万端を調えて、母は出発した。登山の日、残念ながら富士山は大雨だったそうだ。ところが、ツアーは中止にならずに始まった。

 その雨の中を、母は登りにのぼって、八合目、つまりあと500メートル余りまで到達した。ところがそこで、借り物のトレッキングシューズの靴底が剥がれ落ちたことから、リタイアを余儀なくされたのである。

 やむを得ず母は、山小屋で「スリッパ」を借りて、それで、下ったという。もう、とんでもない話である。しかし、いかにも母らしいと思った。


母の葬儀


6.葬儀後の手続き

(1)火葬場での最後の別れの時、好きだった花で母の顔のまわりをいっぱいにしてあげた。お骨上げが終わり、葬儀場に戻ってきてから、皆さんを送り出した。

 その時の時間は、午後2時半である。「役所が閉まるまでにあと2時間半だ。やれることはやっておこう」と言い、兄弟姉妹3人で車に乗った。

(2)まずは市役所である。死亡届は、葬儀社が出してくれているから、戸籍係はパスしてよい。ちなみに死亡届は、死亡診断書とともにそのコピーを10部とっておいてある。これらは、戸籍の除籍が出来上がるまで、その代わりとして役所内や銀行で事実上使える。

 そうやって後期高齢者健康保険と、介護保険について手続きをした。これらは別々の窓口だったが、それぞれの保険証を用意していたので、滞りなく死亡届を出すことができた。

(3)年金事務所も近くなので市役所の帰りに行ってみた。年金手帳はまだ見つからなかったし、戸籍の除籍には5営業日かかるので、書類は揃わないことはわかっていたが、ただ、手続きの流れと必要書類は教えてくれた。年金の支払いは2ヵ月なので、そう急いでいないのだろうと思った。

(4)笑い話だと思ったのは、納税係に行った時のことである。固定資産税の納付について相談に行くと、

 係「いつ亡くなられましたか?」

 私「今月25日です」

 係「31日が引き落としの日なんです。銀行には亡くなったことを報告したですか?」

 私「(なぜ、そんなことを聞くのかと思ったが、私も方言で)いいえ、まだです」

 係「新聞のお悔やみ欄に載りましたか」

 私「いいえ、必要ないとお断りしました」

 係「それでは、もし引き落とされたら、それでよくて、もし引き落とされなかったら、銀行振込で納付を催促する書類を家屋の住所にお送りします」

 私「では、その振込みを確認してから、銀行をストップすれば良いですね」

 係「はい、そうです」

 私は、そんなことをして良いのかと思いつつ、さすがに徴税係のやることだと呆れてしまった。もう、お笑いとしか言いようがない。

 私「今回は、やり過ごすとして、それでは次の納付期限はいつですか?それまでに遺産分割が終われば良いけど、終わらない時の扱いはどうなるがですか?」

 係「では、いま、納付用紙をお渡しします」と言って、渡してくれた。10月末にもらうはずの用紙を今貰うなんて、あまりにも手回しが良いので、びっくりする。

 私「登記名義が変わった時、どうなりますか。こちらの役所で登記を見て対応するのか、それともまた私どもからの届けが必要ですか?」

 係「こちらで登記情報を見るので、届けは必要ありません」、、、なるほど。

(5)市営墓地に埋葬することになるので、手続きが必要だ。また、合わせて東京に墓地を持って行きたい。つまり、東京と北陸のそれぞれにお墓を維持したいと思っている。

 なぜこんな手の込んだことをするかというと、私の家の祭祀の主宰者はもちろん私で、私には息子もその長男の孫もいる。いずれも東京在住であり、もはやこの北陸の地に住むことは、あり得ない。とすると、先祖代々の墓を北陸に置いていても、墓参りするのはとても難儀である。だから、東京に置くしかない。一方、この北陸には、二人の妹がいて、やはり両親の墓参りするのを願っている。それが、東京だけに墓があると、これまた墓参りは非常に不便になる。

 ということで、今回の母の遺骨については、分骨の手続きをすることにした。火葬場で、そのための書類を発行してもらった。そして次に、父の遺骨をどうするかである。現在、市営墓地にある父の遺骨について市役所に尋ねると、こちらも分骨の書類を作成してくれるそうだ。良かった。これで、両親の遺骨を東京にもってくる目処がついた。次いでに、今契約している墓地は、年間の管理料が不要だ(正確には28万円を前払いしてある)ということも教えてもらった。これは、好都合だ。

 東京の東本願寺浅草浄苑にお墓を確保しようと思って、先日、見学に行ったばかりである。私の家は、お東さんではないが、同じ浄土真宗だったので、よろしかろうと思ったわけだ。これは、いわゆるマンション墓だが、まあこれでよいと考えたので、契約をした。

 お墓を作るのに際して「家紋」を聞かれた。「木瓜紋(もっこうもん)」と答えたが、実は同じ木瓜紋でも、2,000種類もあることは承知していた。だから、どの木瓜紋かを示せと言われても全くわからないのは、我ながらやむを得ない。それで、主な木瓜紋を見せてもらい、その中から、小さい頃に見た、母の着物に付けてあった家紋を思い出し、それと似たものを選んで、取り敢えずそれにした。いい加減なものである。

 他方、息子には、将来、妹たちが亡くなった後、北陸の方の市営墓地のお墓の処分をお願いした。もちろん、快く引き受けてくれた。お墓の関係は、これで一段落である。

(6)保険

 母の預金通帳を見ると、毎月2,600円近くが引き落とされている。アフラックとあるから、保険会社だ。保険証書を探さないといけないが、会社から来た葉書が見つかった。「新がん」と記載されているので、ガンだけを対象にしているのか、それとも死亡保険も含まれているのか、それが問題だ。

 アフラックに電話したところ、「これは新がん保険なので保険金は出ないが、精算金が出る」というので、妹の家に請求書を送ってもらうことにした。

(7)原戸籍

 母が生まれてから亡くなるまでの戸籍を全て揃えなければならない。相続人を確定して、家屋の登記名義の変更や銀行預金の手続きに必要だからだ。生きていそうな預金通帳は、4つもある。かつては、それぞれについて原戸籍の束を見せないといけなかったが、最近では戸籍法が改正されて、法定相続情報証明制度ができ、これで便利になった。この制度は,登記所に戸除籍謄本等の束を提出し,併せて相続関係を一覧に表した図(法定相続情報一覧図)を示せば,登記官がその一覧図に認証文を付した写しを無料で交付してくれるというもの。これを使おう。(以下、作成中)

(8)預金通帳

 (作成中)


(9)四十九日法要

 (作成中)

7.遺産分割協議

 (作成中)











(令和5年7月25日著)
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