悠々人生エッセイ



ルツェルン湖風致地区カペル橋




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 1    ライン瀑布
 2    チューリッヒ
 3    ルツェルン
 4    首都ベルン
 5    インターラーケン
 6    イゼルトヴァルト
 7    ユングフラウヨッホ
 8    グレイシャー3000
 9    グシュタード
 10    展望列車
 11    モントルーとヴヴェイ
 12    シオン城
 13    チョコ・チーズ工場
 14    グリュイエール
 15    ローザンヌ
 16    ジュネーブ
 17    後 書 き
 18    同 行 者


 スイスへの旅( 写 真 )は、こちらから。
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 今回のスイス旅行は、本当に楽しかった。このところ、家内の老人ホーム入りや親友の奥さんの急な逝去など、心が沈むことばかりが続いていたが、この旅行で久々に気持ちが晴れる感覚を味わった。そのハイライトを記録しておきたい。


1.ライン瀑布

 チューリッヒに到着した最初の日は、直ぐに北へ1時間ほど走り、ドイツとの国境に近いシャフハウゼンにあるライン瀑布を見に行った。ライン川本流の中で唯一の滝だという、その川の水の色も、ダークグリーンで惚れ惚れするほどに美しい。それが、ある所で大きな滝となる。それを手前から、脇から、上から、そして船から観られる趣向になっている。

ライン瀑布


ライン瀑布


 ソニーα7iiiを構えて写真を撮っていたら、通りかかった現地の年配の男性から「この滝は一番ね」と日本語で話しかけられてびっくりした。「Yeah This is the number one waterfall in Europe. 」と答えたものの、なぜ日本語を知っているのかと思った。ところが滝の脇に、古い日本語の表記があったから疑問は氷解した。なるほど、一時は日本人観光客が大勢押し寄せたことがあったのだ、、、かつて花盛りだった日本人観光客の栄華が偲ばれる。今はどこへ行っても中国人と韓国人ばかりだ。

 私は前回のニュージーランドに続いて、今回もマレーシアで組まれた現地のツアーに参加しているのだが、同じツアーのー行の40歳代の華人女性に、「現地の人に日本語で話しかけられちゃった」という話をすると、彼女は、「ええっ、あなた日本語もわかるの?」というので、「そりゃぁ、日本語が母国語だからさ」と答えると、「ええっ、あなた日本人なの?」と二度びっくりされた。我ながら、「うーん、環境に完全に溶け込んでいる。これでよし」と思った。


チューリッヒのグロスミュンスター大聖堂


チューリッヒのグロスミュンスター大聖堂


2.チューリッヒ

 リマト川に面したグロスミュンスター大聖堂に行く。こちらは15世紀に建てられたロマネスク様式のプロテスタント教会とのこと。内部に入り、カラフルなステンドグラスを眺めた。とても色鮮やかで美しい。それに信仰心が加わって徹底的に作り込むから、ヨーロッパの教会のステンドグラスは、非常に素晴らしい。地下室に行くと、恐ろしいほど力強い男性の像があり、これにはびっくりしてしまった。

チューリッヒ


チューリッヒ


チューリッヒ


 その大聖堂の裏手の登り坂をひたすら上がっていくと、リンデンホーフの坂に出る。そこから、チューリッヒの街を一望できる。青銅色の尖塔が特徴のフラウミュンスター教会(聖母教会)である。一見するとその名の通り女性的な優雅さがあって素敵だ。それもそのはずで、もともとは女子修道院だったそうな。それをはじめとしてあちこちに教会の尖塔が見受けられ、信仰の長い歴史を感じる。見渡すと普通の建物は煉瓦色の屋根瓦で、その手前に繁華街のバーンホーフ通りがあり、その前には2台か3台連結の路面電車がが行き交う。更に手前は川という誠に平和な風景だ。


ルツェルン名物の瀕死のライオン像


3.ルツェルン

 ルツェルン名物の瀕死のライオン像に着いた。ガイドによると、「フランス革命の時に、王族一家を護衛していたスイス人の傭兵760人が惨殺され、350人が生き残ったといわれる。たまたま休暇でフランスを離れていて難を逃れた将校がそれを悼んで募金を募り、それで建立した」そうな。写真左の十字がスイスを象徴し、その下がルイ王家のユリの紋章である。陰惨な歴史があったものだ。

ルツェルン湖風致地区カペル橋


ルツェルン湖風致地区カペル橋


ルツェルン湖風致地区


 ルツェルン湖で、風致地区を歩く。カペル橋というのは、ロイス川に斜めに掛かっているヨーロッパ最古の橋で、中世の面影を見ることができる。その脇面には赤や黄色や紫色の小さな花が一面に飾られていて、実に美しい。三角帽子の可愛いらしい塔まで建っている。これを見るだけでも、スイスに来た甲斐がある。この橋には屋根があり、その中を通っていくと、上には絵が描かれていて、両脇は吹き抜けだから気持ちがいい。その先には、美しい街並みが見られる。その先の山には、白いお城のような建物があり、これまた綺麗だ。



ルツェルン湖風致地区カシュプロイアー橋一人だけ礼拝できる教会


 その近くにあるシュプロイアー橋は、構造はカペル橋とほぼ同じだが、小さな尖塔が橋から突き出ている。そこは一人だけ礼拝できる教会だそうだ。

土産物屋に日の丸がない


 暑さを凌ぐつもりで土産物屋に入ったが、その前の各国の国旗の先頭が中国で、米国、イラン、フランス、スイス、ニュージーランド、韓国と続き、日の丸がなくてがっかりした。日本のプレゼンスがこれほど落ちているとは思わなかった。非常に残念だ。1990年頃のバブル後の失われた30年は、こんなところにも影を落としている。私が社会に出た1973年は、日本経済の最盛期だった。現に79年には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という書物が出版されるほどだったのに、、、今や日本も、イギリスのような老大国になりつつあるのだろう。

 土産物屋の二階には、鳩時計が並べられていて、なかなか可愛い。孫が来た時などに飾ろうと思って買った。ところが、包装が嵩張るので困る。包装を外して嵩を減らし、機内持ち込み手荷物の中に何とか入れた。

 ルツェルンといえば、ウィリアム・テル伝説の本場である。ガイドの話によると、14世紀にこの地を統治していたハプスブルク家の代官ゲスラーは、道に自分の帽子をぶら下げて、通る人にお辞儀を強要したという。まあ、相当な悪代官だったのだろう。ところが、息子を連れたウィリアム・テルはお辞儀を断ったので逮捕された。

 ゲスラーはテルに、「お前の息子の頭の上に載せた林檎を射抜いたら許す」と言ったので、テルはやむを得ず矢を放った。すると、見事に林檎に命中し、息子は無事だった。ところが、テルが2本目の矢を抜いていた。それは、もし息子に矢が当たったら、ゲスラーを射抜くつもりだったと知り、ゲスラーは激怒して、テルを投獄した。テルは、船で牢獄に送られる途中に脱出し、このエピソードはその後のスイスの独立の礎となったという。

 ベルンに行く途中のルンゲルンでは、おとぎの国のような山と湖の写真を撮った。素晴らしい。それこそ、絵葉書のようだ。これは、百聞に一見にしかずで、次の写真の通りである。


ルンゲルンのおとぎの国のような山と湖


ルンゲルンのおとぎの国のような山と湖


ルンゲルンのおとぎの国のような山と湖


4.首都ベルン

 ベルンの国会議事堂は、何の変哲もない普通のビルだから、前を通ってそれだと言われないと、気がつかない。そこから、旧市街に向けて、ダラダラと歩く。塔のようなものが二つもあったが、それぞれ、街を囲う城壁の名残りだそうだ。

ベルンの泉(水飲み場)のカラフルな像


ベルンの泉(水飲み場)のカラフルな像


ベルンの泉(水飲み場)のカラフルな像


ベルンの街中の塔、街を囲う城壁の名残り


 道の真ん中に泉(水飲み場)があり、そこには冷たい清水が出てくる。飲めるそうで、人々が空きボトルに水を詰めている。花に飾られたその水受けの背からは、飾り棒が上に伸びていて、その先に人型のカラフルな像が載っている。キリストのような像、熊の兵士の像、甲冑をまとった騎士の像など、中世の世界を思い起こさせるものばかりだ。見ていて飽きない。

ベルンのアインシュタインの家


ベルンの年取ったアインシュタインの像


 私が昔ここのアーケードを訪れた時にアインシュタインが2年間過ごしたという家があり、確かスイス特許庁に勤務していたはずだ。私も特許庁に勤めていたことがあるから親近感がある。もっとも、何の関係もない(笑い)。探したところ、ほとんど変わらずに、そのままの姿で見つけた。昔と違うのは、その脇のお店には年取ったアインシュタインの像があって、一緒に写真が撮れることで、笑ってしまった。

ベルンを流れるアール川


ベルンの若い頃のアインシュタインのベンチ


 先に進む。ベルンで最初に出来た橋は、湾曲して流れてくるアール川に掛かる。そのたもとにベンチがあり、そこにもアインシュタインの像があって並んで写真を撮ることができる。ただし、こちらはアインシュタインの若い頃の像である。ツアーガイドにこれと一緒に私の写真を撮ってもらい、何だか賢くなった気がした(大笑い)。その脇の売店で買ったアイスクリームが美味しかった。

ベルンのバラ公園


 街を見下ろす高台にあるバラ公園には、もう8月も終わりだから、バラはないものと思っていたが、実際に行ってみると少し残っていた。ここから、街全体を眺めることができる。


5.インターラーケン

 インターラーケンというのは、ブリエンツ湖とトゥーン湖の間に位置する町である。着いて直ぐにスイスの民族音楽を聴きながらのディナーがあるというので、駅近くの川を渡った所にあるレストランまで歩いて行った。

インターラーケンの街


インターラーケンの街


 アルプスのハイジの服装をした女性ボーカル、麦わらパナマ帽の似合う年配の紳士、禿頭のおじさんのアコーディオンという3人組がパフォーマーである。

インターラーケンのパフォーマンス


 ただし女性は体が横に相当大きい人で、ハイジなら3人ほどが入りそうな体躯である。これで歌えるのかと心配する。それでも始まってみると大きい声ではないが、まあ普通の声量で、「ララロ、ララロ、ラッラッロー」とやっているから安心した。

 パナマ帽の紳士は、バイオリン引きが本業だが、副業にカウベルを持ち出し、大小様々な大きさのカウベルを器用に扱って、エーデルワイスなどを演奏している。なかなか上手い。

 そうかと思うと、アコーディオンのおじさんは、ノコギリを持ち出して「ウィーン、ボローン」などとやっている。しかし、あの音はやめてほしい。鳥肌が立つからだ。

 ひと通りそれらが終わると、パナマ帽がアルペンホルンを持ち出し、器用に演奏した。それで、ツアーのメンバーから吹きたい人を募った。高校生の男の子が手を挙げてチャレンジした。結構大きな音を出して拍手喝采をもらった。次に20歳くらいの女の子がやってみたら、ほとんど音にならずに敗退。驚いたのがツアーコンダクターのおじさんで、音が出て、しかも音程になっている。何でも、若い頃、サキソホンを吹いていたからだというから、大いに納得した。

 それを契機に、ほぼ半数の人を舞台に上げて、何やら楽器を持たせて演奏をし始めた。スイスやマレーシアの国旗まで用意し、演奏しない人にこれらを持たせて大騒ぎだ。これが結構、ツアー一行の心を掴んだようで、楽しい馬鹿騒ぎとなった。

インターラーケン街を闊歩する観光馬車


インターラーケンの空に舞うパラグライダー


 翌朝、町には観光馬車が走り、たまたま上を見上げると空にはパラグライダーが舞っていた。インターラーケンは、パラグライダーのメッカらしい。教習所もあるというから、私ももう少し若かったら挑戦してみたかった。


6.イゼルトヴァルト

 インターラーケンをバスで出発し、しばらくしてイゼルトヴァルトに到着した。こちらは、ブリエンツ湖の南岸にある平和で美しい村で、「ブリエンツ湖の真珠」と言わているそうだ。それぞれの家が色とりどりの花を植えて、さりげなく飾っている。これも、言葉を尽くして説明するより、写真を並べた方が百聞は一見にしかずである。


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


7.ユングフラウヨッホ

 グランデルバルトからロープウェイでアイガー・グレイシャー(2,320m)に到着した。そこまではわずか15分間で、ゆっくり景色を眺めている暇がないほどだ。直ぐにそこから鉄道に乗り換えて、頂上を目指す。ここまで、昔は鉄道だったが、それだと40分間はかかるそうだ。標高が上がるに連れて高山病の兆しが出てこないか気になるが、マチュピチュの時と同様に、私は全く問題がなかった。でも、同行の21人中、3人が目眩いがしたそうだ。

グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


 終点のユングフラウヨッホ駅(3,454m)の直ぐ手前でアレッチ氷河を見られるポイントがあり、そこで5分間の停車となる。急いで降りて見物に行った。以前来た時もここで降りたことを思い出した。

 次にすぐユングフラウヨッホ峰(3,466m)の駅に着いて電車を降りた。ここは、ユングフラウ峰とメンヒ峰を結ぶ稜線の鞍部にある山である。ちょうどお昼前だったから直ちにスフィンクス展望台(3,571m)に上がり、そこで昼食となる。スープに骨付き鶏とポテトチップが出てくる。大量生産向きだ。時間のない時に何かお腹の中に入れておくような場合には、こういう方式しかないのだろうが、そうでない場合には、ごめん被りたいメニューだ。

 ここスフィンクス展望台は、外に出られる。前回来た時は、外は嵐気味で周囲は真っ白だったが、今回は曇りではあるものの、一応、外が見える。目の前に見えるのは、ユングフラウ(4,150m)か、メンヒ(4,107m)か、それともアイガー(3,970m)か、、、形からして、ユングフラウ峰に間違いない。ツアー・ガイドもそう言っていた。

ユングフラウのスフィンクス展望台


ユングフラウのスフィンクス展望台からの眺め


ユングフラウ峰


 下界を見下すと、中ほどに雲がたなびいているものの、晴れていて、景色が良く見える。手前はもちろんアレッチ氷河、その向こうは緑の大地(グリンデルワルト谷)、更に向こうは青く霞む山々だ。ここからの眺めが、「ヨーロッパ最高地点」 の3,600m余りと思うと、感激もひとしおと言いたいところだが、2時間ほどであまりにもあっけなく来たので「着いたぞ」とでも言われなければわからないのが笑い話だ。ひと通り眺め渡したところで、寒くなって中に入ったら、大吹雪になった。山の天候は一瞬にして変わる。

スフィンクス展望台内で、ユングフラウ鉄道建設の歴史を学ぶ動く歩道


スフィンクス展望台内で、ユングフラウ鉄道建設の歴史を学ぶ動く歩道


 展望台の中のツアーがある。まずはこのトンネルの歴史である。1862年からトンネルを掘り始めて、60年もかかってようやく完成したそうだ。こんな高所にトンネルを掘ろうなんて良く思いついたものだ。工事にあたったのはイタリア人工夫で、最初は機械もダイナマイトもなかったことから、全て手掘りだったとのこと。日本の黒部ダムの比ではない。

スフィンクス展望台のアイスパレス


 次は氷河をくり抜いた氷のトンネルである。周りも床も、氷であることは無論のこと、手摺があるとはいえ、滑りやすい。歩いている途中、注意していたはずなのに、やはり滑って転んで尻もちをついてしまった。トレッキングシューズを履いていながら滑るとは、我ながら情けない。

 幸い怪我はないから良かったものの、そこから氷の上で立ち上がるのに往生した。つるつる滑って本当に立ち上がれない。スケートリンクで立ち上がるのが難しいのと同じだ。ほとほと困っていると、親切なことに、近くにいた大柄のインド人が助けてくれた。

スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


 アウタブルナーからバスでインターラーケンへ行く途中は、かなりのくねくね道(ワインディングロード)である。その中を我がバスのイタリア人運転手は、鼻歌を歌って運転している。時々真横を向いてツアーコンダクターと大きな身振りで話をする。イタリア人らしいが、本当にやめて欲しい。ああ、危ない、対向車が来た。彼は慌ててハンドルを少し切ったが、慣れているらしくて、ほんのちょっとのことだから、我々の腰がわずかにツイストしただけだ。それにしても、、、大丈夫かこの人、、、。

スフィンクス展望台から降りてくる


 道中で大きな滝を見つけた。100mはあろうかという垂直の崖から、一筋の滝が落ちてくる。氷河の雪溶け水だそうで、春はもっと幅広の大滝になるそうだ。


8.グレイシャー3000

 インターラーケン発、コルデュピロンでロープウェイ(1,546m)に乗り、カベーヌ(2,525m)で別のロープウェイに乗り替え、セ・ルージュ山頂駅(2,971m)に到着した。途中の下界の風景は、まるで繊細に作られたジオラマのような世界で、感激してしまった。

グレイシャー3000に行く


グレイシャー3000に行く


グレイシャー3000に行く


グレイシャー3000に行く


 駅に着いて外に出てみると、素晴らしい天気で、太陽の日ざしが、燦々と降り注ぐ。気温は8度だが、体感温度は15度くらいでピクニック日和だ。4人乗りのリフトがあり、下の氷河へ氷遊びに行けるようだが、氷河が溶けて、岩肌が剥き出しで、痛々しい限り。これも地球温暖化のせいか?

下の氷河へ氷遊びに行く


Peak Walk by Tissot


 氷が汚いものだから、氷遊びはほどほどにして、いよいよ二つのピークを結ぶ橋(Peak Walk by Tissot)に行く。ところがかなりの登り階段で、しかも、工事現場の足場のような造りのもので出来ているから、歩きにくい。幸い冬ではないので滑らないからよいようなものの、そこの階段を上がらなければならない。何しろ標高3000mの高台に行こうとするわけだから、ゆっくり、一歩一歩確かめるようにして上がる。転けたら周りに迷惑だ。途中で1回休んだ。数えてはいないが、数十段は登ったのではないか、ようやく二つの峰を結ぶ橋の片方のたもとに着いた。そこから、もうひとつの峰に向けて吊り橋が掛かっている。

Peak Walk by Tissotからの眺め


Peak Walk by Tissotからの眺め


 風はなく快晴で、遠くまで見渡せる。近いところは剥き出しの岩場で、所々に氷河らしきものがある。吊り橋の片方には、下に広がる緑の大地が凹んでいる感じだ。その向こうには、また山々が連なる。それらは、上から下へと眺めていくと、山肌の上はもちろん岩石と氷河ばかり、その下には緑の芝生のような植生で、更に下には黒っぽい森林が広がる。ああ、、地の底のような所に湖があった。その周りに人家が散らばっている。これはまたあたかも神様が天上界から下界を眺め下ろすような、まさに絶景である。

 近くの人に、「どれがアイガーで、どれがユングフラウだ」と聞いたら、「自分もわからないが、あの望遠鏡を覗いてみたらわかる」と聞いて、覗いてみた。その方向にむけると、確かに文字が書いているではないか、、、ところが、光が反射する上に、文字が細かすぎてよくわからなかった。

シルソーン山の頂き


 吊り橋を渡り始めたが、風がないので歩きやすい。途中で写真を撮りながら、何なく向こう側に着いた。シルソーン山の頂きである。岩場の上にスイスの国旗が翻っている。

下る人もいれば登ってくる人もいる


 ここは標高3,000mの地点だというのに、吊り橋の柵を乗り越えて、岩肌剥き出しのところを足早に降りていく人物がいて、びっくりした。でも、更に上手がいた。その人物とすれ違うように下から登ってくる屈強な男たちがいてやはり柵を乗り越えて入ってくるのを見た時は、驚いたの何のって、、、日本でいえば、山伏の役小角みたいな人たちだ、、、ああ、ちょっとたとえが古いか。

 これが、グレイシャー3000かと思いながら周りを見渡すと、先ほど吊り橋の向こうから見た風景とあまり変わりがない。当たり前だ。早々に退散して、階段を下ってきた。今度は下りだから、さっさと降りてこられた。


9.グシュタード

 グレイシャー3000から下ってきて、グシュタード(標高1,049m)に到着した。素朴で静かな雰囲気の町で、どこもかしこも綺麗にしつらえている。ロジャー・ムーアやエリザベス・テイラーなどの映画スターや各国のセレブに人気のある有名な土地ということである。日本でいうと、軽井沢といったところか。メイン通りの建物は、いずれも花また花に飾られていて、まるでおとぎの国のように美しい。丘の上には、古城のような外観の高級ホテルがある。

グシュタード


グシュタード


グシュタード


グシュタード


 しばらく見て回っていたら、同じユニフォームを着て黒い大きなカウベルを傍に置く集団がいた。何かのイベントで、それを演奏するらしい。でも、どれも同じ大きさのカウベルだから、ミュージックになるのか不思議だった。でも、数分後に謎が氷解する。単調な音だが、マーチとしては、成立しているから面白い。


カウベルの行進


10.展望列車

 パノラミックトレイン(展望列車)というものに乗った。ルツェルンからモントレーまで行くもので、途中のグシュタードからの乗車である。左右の景色は、すこぶる良い。緑の斜面に家がポツポツとあり、いずれも申し合わせたように、スイス式の木造の家(シャレー)である。

グシュタード


グシュタード


グシュタード


 スイス政府観光局のHPによると、「春には花が咲き誇る草原と放牧されている牛たち、伝統的な木造のシャレー、奥に広がるアルプスの山々など、展望車両の窓に次々と展開する絵画のような風景を眺めながら、セレブが集う山里グシュタードや伝統の牧童の暮らしが息づくペイダンオー地方へ。そして、5月には一帯の山の斜面に可憐なナルシスの花々が咲くレザヴァンを過ぎる頃、美しいレマン湖と名峰ダン・デュ・ミディが見えてきます。さらに世界遺産のラヴォー地区の葡萄畑が広がる絶景を走り抜けるとモントルーに到着します」とある。

 同行の元教師の人が、「あの緑の芝生は、自然のままなのですかね。マレーシアだったら、放っておくと伸びていくんですけど、こちらは放っておいても伸びない草なのでしょうか」という。

 私が「日本でも、夏場に草を刈らないと、1m以上の草ボウボウ状態になる。これは、地味が豊かな証拠だと思う。その点、スイスの山岳地帯は、土壌が貧しくて、こういう地味に合った背の低い芝生のような植物しか生えないのかもしれない」と言ったが、多分それで当たっているのではないかと思っている。


11.モントルーとヴヴェイ

 レマン湖の東の端にやってきた。モントルーで、反対側の西の端にはジュネーブがある。

 泊まったのは、モントルー郊外ヴヴェイのモダンタイムスホテルで、その名の通り、チャーリー・チャプリンの映画にちなんでいる。館内はもちろん全室に、この地ヴヴェイで亡くなったチャプリン由来のものが館内のあちこちに置かれている。

モダンタイムスホテル


モダンタイムスホテル


モダンタイムスホテル


モダンタイムスホテル


 ヴヴェイを出て、近くのボヴィ・ワイン醸造所に着き、ワインを4種類、試飲する。白(1年物)、白(2年物)、ロゼ、赤なのだが、私にはどうもしっくり来なかった。でも、ここからの眺めは抜群で、目の前はレマン湖が広がり、手前には湖に面してなだらかな斜面があって、そこに葡萄が植えられていて、もう実をつけている。このワイン醸造所は三代目がやっていて、もうすぐ四代目になるという。おじいさんの代に作られたオークの醸造用の樽は、200年以上も持つそうだ。そのおじいさんが樽に描いた年代物の絵は、なかなか味があった。

ボヴィ・ワイン醸造所


ボヴィ・ワイン醸造所


ボヴィ・ワイン醸造所


 ヴヴェイに戻り、街を歩く。湖畔にチャプリンの銅像がある。その近くの湖水中に、10mくらいの高さのフォークが突き刺さっている。何とも刺激的なオブジェだ。

チャプリンの銅像


フォークが突き刺さっている


チャプリンの銅像


 クイーンのフレディ・マーキュリーの像もあるが、片手を上げている格好をしているので、その脇で同じような形をしてポーズをとり、一緒に写真を撮っている人がいて、笑ってしまった。

クイーンのフレディ・マーキュリーの像


 お昼ご飯は各自でというので、探して歩いていたら、寿司屋があった。仲間を誘って入り、アボガドサーモン丼を頼んだら、美味しいし、ボリュームもちょうどいい。何よりも、久しぶりの和食だから、生き返ったような気がした。


12.シオン城

 シオン城(Chillon Castle)は、レマン湖の南北通航を監視する防衛拠点として、12世紀に設けられ、それ以来改築を重ねてきた城である。その歴史は、次の3期に分けられるという。

 サヴォア家領時代(12世紀から1536年まで)
 ベルン人所有時代(1536年から1798年まで)
 ヴォー州所有時代(1803年から現在まで)


 この城は、当地の豪族だったサヴォア家が所有し、サヴォア伯爵・公爵のものだったが、実際に住んでいたのは、城主と言われた代官だったようだ。

 1536年にベルン地方のスイス人がこのヴォー地方とこの城を占領し、その後260年にわたり、城は要塞、武器庫、牢獄として使用された。1778年のヴォー州革命によってベルン人は去り、ヴォー州が成立した1803年からその所有となった。

 中を見て回ると、まさに中世のお城そのもので、なかなか興味深い。それにしても思うのは、ここに住むのはさぞかし寒かっただろうなということだ。暖炉はあるが、何しろ石造りで、天井が高く、窓にガラスがないから吹きっさらしだ、、、。

 宴会の間があった。中世の騎士たちが集まり、大きな暖炉で豚の丸焼きを作り、木製の頑丈なテーブルにそれをドーンと置き、ワイワイガヤガヤと飲み食いしている姿が目に浮かぶ。

 寝室に入ると、ベッドの長さが短くて140cmから150cmしかない。これは、当時の人々の背が低かっただけでなく、背中にクッションを入れて半ば身を起こす形で寝る習慣があったのではないかと言われているそうだ。常在戦場という意識なのだろうか。

 シオン城がイギリスのロンドン塔と同じだなと思ったのは、通行税を集める関所、いざという時の要塞、そして牢獄という3つの役割を果たしているので、外見以上の歴史があるからだ。ちなみに、イギリスの詩人バイロンが書いた詩のうちの「シオンの囚人」は、ここのことを言っているらしい。

シオン城


シオン城


シオン城


 モントルーには、カジノがある。私は賭けはしないことにしているので、パスしようとしたら、同じ建物に「クイーン」の衣装やシンセサイザーなどが展示されているコーナーがあるというので、行ってみた。しかし、私は歌謡界には疎くて、そもそも「クイーンって何だ?」という状態だから、感激も何もなかった。それにしても、奇抜な格好をするものだ。NHK紅白歌合戦の小林幸子と同じかもしれない、、、いやいや、小林幸子の方が、もっと派手か。

カジノ


クイーンの衣装


 昨晩、ホテルにチェックインして部屋に入り、あまりに疲れていたことから、シャワーを浴びて髪を乾かした直後に、そのまま寝てしまった。ところがかなり寒かったようで、翌朝、喉が痛いし、咳も出る。エアコンの設定を見ると、なんとまぁ摂氏18度で、めちゃくちゃだ。これは駄目だ。せっかく3000mの世界から下界に戻ったというのに、ここで風邪を引いては何にもならない。薬局(phermacy)がないかなと思って街を歩いていると、カジノの前にあった。

 入って、女性の薬剤師に、「咳が出るし、喉が痛い」というと、「dry or wet?」と聞くので< 「Well... It's rather dry.」と答えると、茶色の瓶を出してきた。咳止めのシロップだ。1日に3回、1回に15cc、最大4回飲めという。それに、日本で言えば「のど飴」に当たるものも添えてくれた。合計35CHF(約5,700円)である。これが良く効いて、1日半で咳は完全に治まった。のど飴もシュガーレスの「グミ」のようなものだったから、くどくなくて良かった。


13.チョコレートとチーズ工場

 今日はチョコレート工場とチーズ工場に行く日だ。ただし私は、チーズは食べるが、普通のチョコレートは甘すぎて、進んで食べようという気にはならない。もっとも、GODIVAは別格で、これは美味しく感じて好んで食べている。

チョコレート工場


チーズ工場


 スイスの老舗ブランドであるカイエ(Cailler)のメゾン・カイエ(チョコレート工場)では、スペインのインカ帝国征服の頃から、ココアとチョコレートがいかにヨーロッパ中に広がっていったかというチョコレートの歴史を、まるでお化け屋敷のようなところで展示していた。

 スイスでは、人気の順にいうとミルクチョコが70%、普通のチョコが25%、ホワイトチョコが5%だという。ミルクチョコと、ホワイトチョコとはどう違うのかと聞いた。すると前者には牛乳が、後者にはカカオニブが使われているそうだ。

 チーズ工場では、牛乳を大きな鍋でかき回している場面を見せてくれた。解説によると、85kgの草と100Lの水から25kgの牛乳がとれる。400Lの牛乳から35kgの丸い大きなチーズがとれる。12Lの牛乳から1kgのカットチーズがとれると書いてあった。ということは、1kgのカットチーズを作るためには、3.4kgの草と4Lの水が必要なのか、、、資源多消費型の製品なのだな、、、。


14.グリュイエール

 グリュイエールは、ちょっとした高台にあるお城が、中世の面影を良く残している。この街のHPによれば、こういう歴史らしい。

「この村の名前は、この地で鶴(grue)を仕留め村の礎を築いたとの伝説が残る偉人グリュリウス(Grurius)に由来している。村の紋章に鶴が描かれているのは、そのためである。

 グリュイエール公の名は11世紀の文献にすでに表れている。以後、グリュイエール家は広大な土地を支配し続け、サヴォワ公国の従属となりながらも独立を維持した。

 しかしグリュイエール家最後の領主ミシェル公は、1544年に当時ベルン公国とフリブール公国との争いに巻き込まれる形で、領主権を売却せざるを得なくなってしまった。」


グリュイエール


グリュイエール


グリュイエール


グリュイエール


 起伏のある牧草地が広がり、その所々に家が散見されるのどかな「くねくね道」を行くと、石畳の登り坂がある。そこに車を停めて、坂を登り、城門をくぐると、城内に入る。広場は石畳、真ん中に花を二段に飾ったモニュメントがあり、綺麗だし、ランドマークになっている。その左右にレストランやホテルがごちゃごちゃとある。奥の方は教会で、そこまで登り坂が続く。

グリュイエール


グリュイエール


グリュイエール


 その坂の中途あたりのレストランで、チーズ・フォンデュを食べる。最初はパンを小さく千切って煮え立つチーズに漬けて食べ、次はブロックに切った牛肉、鶏肉、豚肉をやはり煮え立つ油の中に突っ込んで食べるという趣向だ。これらの次に果物の角切りを煮え立つチョコレートに漬けて食べるというものだが、あれあれ、野菜はないのか?、、、何とも中途半端でチープなフォンデュだった。


15.ローザンヌ

 ローザンヌは、国際オリンピック委員会本部とオリンピック・ミュージアムがあることで有名だが、今日は朝から気温35度のところを歩いてきたので、疲れた。夕方にいったんホテルに着いてからは、とてもオリンピックミュージアムまで歩く気にはならなかった。

ローザンヌ


ローザンヌ


 街から坂をあがり、ノートルダム大聖堂 (Cathedrale de Lausanne) にやって来た。焼けてなくなったパリの同名の大聖堂を思い起こすが、こちらの方も負けず劣らず美しくて立派なゴシック様式の教会だ。外は35度の焼けるような高温なのに、中に入ったら、とても涼しい。それもそのはずで、中は22度だという。色が煌めくステンドグラスが素晴らしい。礼拝の簡素な椅子が並んでいるところをしずしずと進んでいく。中ほどで振り返ると、入口の2階部分には、立派なパイプオルガンがあった。

ローザンヌ


ローザンヌ


 こちらは12世紀にローマンカトリック教会として出発した。もちろんその時代には高い建物がないから、そんな時ににこんな強烈な存在感があるものを見せられたのでは、教会の権威にひれ伏すわけだ。もっとも、この教会も宗教改革の嵐に巻き込まれて、16世紀にカソリックからプロテスタントになったそうだ。ドイツでのルターの活動、スイスやフランスでのカルヴァンの改革などは、こういう教会の権威と戦ったのかと思うと、誠に感慨深いものがある。


ローザンヌ


ローザンヌ


16.ジュネーブ

 ローザンヌで大聖堂を見てから、バスに乗ってうとうとしていると、「国連です。あれが壊れた椅子です」という声が聞こえてきた。あれ、もうジュネーブに着いたようだ。まだ1時間余りしか寝ていない。

国連ビル


国連ビル


 国連ビルの前には、芝生の両側に各国の旗が4列に並んでいる。日本の旗がないかと探したら、あったので、記念に撮ってきた。

壊れた椅子


壊れた椅子


 壊れた椅子は、その国連の敷地の前にある。地雷禁止条約交渉のときに、地雷がいかに非人道的かを示すシンボルとして、わざと4本の脚のうちの1本を壊した椅子を展示し、その後もこれは良い作品だということで、引き続き展示されているのだそうだ。今もウクライナの地に、ロシアによって膨大な数の地雷が敷設され、人々が犠牲になっている。何とも悲しい気がした。

大噴水


観光列車


花時計


ジュネーブ市内


 レマン湖の花時計の前で下ろしてもらい、そこから反時計回りに湖の周囲を歩く。目の前には140mも上がっている大噴水(Water Jet)がある。ジュネーブ名物だ。宇宙からも見えるという。ただ、今私が居る位置は、風の関係で水が落ちる方向があまり美しくない。それに、水滴があるから、方向によっては虹が見えるかもしれないと期待して、ぐるりと四分の一周したが、残念ながら虹は見えなかった。この大噴水は、元々は水力発電所の余剰圧力を逃がすために19世紀末に設けられたが、これは観光名物になるということで、1951年に大きく増強されて、今に至っているとのこと。

 帰国の便に乗るためにジュネーブ空港でエティハド航空のカウンターで並んだ。私の番が来てパスポートと旅程表を見せると、「マレーシアのビザはあるか」と聞いてくるので、「3ヶ月の観光ビザを貰うつもりだ」というと、「いつ日本に帰国するのか」とまた聞くから、「8月28日のJALだ」と答えると、「その航空券を見せろ」と言う。「紙の旅程表は、この中だ」と預けるつもりの荷物を指さすと、「見せてくれ。これも規則でね」と言う。今から開けるのも面倒なので、「携帯の電子航空券で良いか」と言うと、「それでも良い」と言うから見せると、やっとそれで通った。このやり取りに時間がかかったし、同じカウンターで私の後方に並んでいた人には、迷惑をかけて申し訳なかった。ニュージーランドのツアーの時には、こんなことはなかったというのに、これは何としたことだろう。不法移民が多くて、ピリピリしているのかとしか思えない。





17.後書き

(1) 円レートが146円にもなったせいか、海外旅行の料金が高騰している。スイスエアを使ったスイスへの旅が、エコノミークラスで81万円、ビジネスクラスで121万円とは、これは驚いた。確か8年前はビジネスクラスで70万円だったのに、、、

 実は私は、先般のニュージーランド旅行でマレーシア中国人のツアーに入って楽しかったので、今回も同様にした。数ヶ月前に支払ったのは、エコノミーで53万円である。そんなものだろう。ただし、日本からだとマレーシアに渡航する費用が必要だが、私はコロナ禍の3年間の買い物でマイレージが貯まりに貯まっているから、それを使った。でも、燃料サーチャージとやらで、現金をかなり支払ったので、それを入れると57万円になる。それでも、日本発ツアーよりはお得である。

(2)なんでこうなっているのか、成田・クアラルンプール間の航空運賃を比較してみた(2023年12月6日搭乗、片道)

 バティックエア(直行)   57,360円
 エアアジア(直行夜間便)  61,550円
 マレーシア航空(直行)   103,960円
 日本航空(直行)      243,060円


(3)新型コロナ禍が終わって減収分を取り戻そうとしているのか、日本航空なんて、出鱈目とか言いようがないほど高い。ナショナルフラッグという意味では同じだから、スイス航空も似たようなものなのだろう。

 新聞によれば、「世界各地で国際航空券価格が高止まりしている。米国―アジア便は新型コロナウイルス禍前の2019年に比べ6割高い。管制官や地上職員の不足などによる減便に加え、ジェット燃料費の高騰が主因だ。コロナ禍前の水準にほぼ回復した国内線とは対照的に、航空各社は国境を越えた移動の需要に応えきれていない。(中略)

 航空券価格上昇の要因のひとつが航空大手による減便だ。

 ドイツ航空大手のルフトハンザは今夏のフライト数を計画比で10〜15%削減すると決めた。カールステン・シュポア最高経営責任者(CEO)は『本来はもっと航空券を売ることができたはずで、夏休みの旅行需要を逃している』と語る。

 英格安航空会社(LCC)のイージージェットはロンドン発着便を中心に7月から9月に約1700便の欠航を発表した。

 長引くコロナ禍で航空会社の就業者数は大幅に減少した。コロナ明け当初、世界的な問題となったパイロット不足は大幅な賃上げや定年延長で解消に向かいつつあるが、地上スタッフや管制官はまだ不足しており、運航便数を増やすことが難しい。(以下略)」
とのこと。(日経新聞2023年8月23日付)

(4)とまあ、旅行代金に対する不満から話をしているが、どうして今回のマレーシア発の旅行が安いのか、その理由がわかった。エティハド航空という聞いたことのない航空会社を使ったからだ。これは、アラブ首長国連邦の航空会社らしい。そのせいで、アブダビ乗換えになってしまった。

 エティハド航空の座席はやや狭いが、機内サービスと座席の画面の使い勝手はごく普通だった。映画には、ミッションインポシブルシリーズのように、日本語吹替えのものもある充実ぶりである。

 ただし、乗換え地のアブダビの飛行場はいただけない。乗り換えようとしたら、そもそもボーディングブリッジがない(もっとも、帰るときの乗換えにはあった)、一部の待合室のエアコンが壊れている、雨漏りすらしている、搭乗口の電子表示がついたり消えたりして見にくいなど、快適とはとても言えない。ここでの乗換えは、なるべく避けた方が良いだろう。エミレーツ航空の方が良かった。

(5)それにしても、今回のスイス旅行は暑かった。行く前は、スイスの気候は、例えば軽井沢のような高原の気候と考えて、厚さ対策など想像もせずに荷物を準備していた。ところがいざ行ってみると、前回は零下に近かったスフィンクス展望台はなんと摂氏8度もある。グレイシャー3000も同様で氷河が溶けている。こんな標高3000m地点でも、これは温かいと思って見て回った。それは良かった。ところが、ルツェルンのような平地に降りてみても、気温32度は普通で、もう熱帯並みの暑さでびっくりした。こちらだけかと思って他の都市に行ってみても、事情は同じだ。その中を歩き回らないといけなかったから、ほとほと疲れた。


18.同行者

(1)マレーシアの国旗

 首都ベルンの街で、我々のガイドが、マレーシアの国旗を掲げて先導している。現地の紳士が、「あれ、、どこの国かな」と呟くので、傍らを歩いていた私が冗談で「アメリカですかね(Is it the United States flag?)」と言うと、「それにしては、何かが違っている、、、ああ、、星のところに月がある」と言うので、マレーシア人が大笑いした。

 しばらく行くと、今度は相当年配の白人が、この旗を見て、何と敬礼をしたので、びっくりした。元軍人さんなのだろうか。


(2)アブダビ乗換え

 私が、「今回のアブダビでの乗換えが最悪だった、ドバイ乗換えの方がマシなのではないか」と言うと、「いやいや、ドバイは別の意味で最悪だ」という人がいた。

 その人は、ブダペストに行く途中、なんとまぁ、置いていかれたそうだ。「Final Callが聞こえなかったのか」と聞くと、「ドバイは、設備は最新だが、放送しない方針らしい。だから、搭乗口の近くにいたのに、つい寝てしまい、気がついたらもう出発していた。アブダビなら、椅子が固くて寝入ることはないのに、ドバイは変に設備が良いから、寝てしまった」というので、皆で笑ってしまった。

(3)バルマティ

 前回のニュージーランド旅行の時は、私以外の全員がマレーシア中国人だったが、今回は一行の中にインド人が4人いる。だからガイドの説明が全て英語だったので助かった。

 ところでそのインド人のうち、目がパッチリして鼻の高い美人がいる。アーシャーという名で、どうやらパンジャビ(シーク教徒ではなく通常のヒンズー教徒だという)らしい。肉は一切食べないせいか、背は低いものの、スタイルは抜群である。50歳だというが、長年ベジタリアンを続けると、こんな風になるのかと、思ってしまった。

 この人が、時に面白いことを言って笑わせる。ある時、彼女の友達が入院したというので、病院へお見舞いに行った。ちなみにこちらでは、相手のファーストネーム(名)はもちろん知っているが、サーネーム(姓)を知らないことがしばしばある。

 病院で、相手のファーストネームを看護師に言うと、「ああ、バルマティね」と言って、奥の方を指差した。ちなみに、マレー語で「バル」とは「新しい」とか「◯◯したばかり」を言い、「マティ」とは「死体」を言うから、見舞いに来たのにその人が「死んだばかり」と思って、ひどく動揺したという。

 ところが実は、その病人のサーネームがたまたま「バルマティ」だとわかって、大笑いしたそうだ。多民族国家で人種と言葉が交錯するこの国らしい話である。

 そういえば、前回のニュージーランド旅行でも、同行者の一人で太っている女性がいた。その名前のスペルが 「Hui Hui」というので、誰かに「あれは『フィフィ』と呼ぶのか」と聞いたら、「そんなことは言っちゃ駄目。それは広東語で『太っちょ』という意味なんだから」と言われて、びっくりして大笑いしたことがある。また今回も、似たような経験をした。これだから、海外旅行は止められない。


(4)あなたは55歳か

 インド人の二つのカップルのうちの若い方の男性が私に話しかけてきた。「あなた、何歳なの?」というわけだ。「当ててみたら?」というと、首をかしげながら、「ううーん、55歳かな」というので、「残念でした。もうすぐ74歳になる」と答えた。すると両手を上にあげて「ええっ、父親の世代だ。そんな風には見えない」とビックリしていた。

 この旅行で、一番嬉しかったことだ。笑うしかない。







(令和5年8月26日著)
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悠々人生エッセイ





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