悠々人生エッセイ



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目          次 
 1  前書き   11  ホルス神殿
 2  エジプトの歴史 12  コムオンボ神殿
 3  ルクソール到着 13  イシス神殿
 4  ルクソール神殿 14  未完のオベリスク
 5  ベリーダンスショー 15  アスワンハイダム
 6  王家の谷 16  アムシンベル神殿
 7  ハトシェプスト女王葬祭殿 17  ギザのピラミッド
 8  ネフェルタリの墓 18  スフィンクス
 9  カルナック神殿 19  エジプト考古学博物館
 10  エスナの水門 20  後書き

 エジプトへの旅( 写 真 )は、こちらから。


1.前書き

 エジプトに一人で行くには今ひとつ自信がないので、安全のためにクラブツーリズムのツアーに参加した。成田空港からトルコ航空機(TK51)でイスタンブールまで13時間半飛んだ。フライトマップを見ていると、北京上空から真西東の方向に飛ぶのだが、中国上空で微妙にジグザグ飛行をしている。地上に軍事基地でもあるのか、それともウクライナ戦争のせいでロシア上空を飛べないのか、そのどちらかだろう。

 イスタンブールからカイロに向かう(TK692)のだけれども、何とまあ、乗り継ぎの間隔が7時間も空いている。これは非効率だ、、、仕方がないので、ラウンジのリクライニング・シートで5時間近くじっくりと寝た。ちなみに、来る途中の機内でも、3席を独占して寝ていたから、睡眠は十分で、かつ腰も全然痛くならなかったのは、幸いだった。

 なお、この旅行の後の9月28日に、成田からカイロへの直行便(エジプト航空)が就航したそうだ。最初の便は、全300席が満席だったという。

 明け方近くにカイロのホテルにようやく到着し、ホテルでひと休憩して朝食後、国内便でルクソールへ向かった、


2.エジプトの歴史

 エジプトは、国土の縦の長さが1024キロメートルの細長い国で、ナイル河流域は概して海抜0メートル地帯が広がっている。

 古代エジプトの歴史について、今はやりのチャットGPTに聞いてみたら、次の通りである。なお、別の角度からいくつか質問して、その回答を組み合わせてある。

(1) 上下エジプトの統合

 紀元前3100年頃、つまり今から5100年も前に、それまで別れていた上エジプト(南部)と下エジプト(北部)が統一され、古代エジプト文明が始まった。

 両エジプトを統一したのは、古代エジプトの最初のファラオである「メネス」又は「ナルメル」(Narmer)という王とされている。彼は上エジプトの王冠と下エジプトの王冠を組み合わせた「二重冠」を使用し、統一を象徴した。この出来事は古代エジプト文明の成立と発展の基盤となり、エジプトの歴史の始まりとされている。

 エジプトはナイル河の豊かな流域に位置し、この河が生活の中心だった。毎年のその氾濫が肥沃な土壌を提供し、古代の農業を支えた。

 古代エジプト人はヒエログリフと呼ばれる文字を使用した。フランスの学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンが、19世紀初頭にロゼッタ・ストーンを元にこれを解読する業績を残したのは、有名な話である。

 古代エジプト人は多神教を信仰し、多くの神々を崇拝した。有名な神々には、ラー、イシス、オシリス、ホルスなどがある。

 ファラオは死後も信仰され、彼らの霊魂はアフターライフで永遠の生活を楽しむと信じられていた。そのため、ピラミッドには棺のほか、貴重な宝物や食品が埋葬された。

 古代エジプトは、芸術、建築、宗教、科学などの面で多くの重要な貢献をした。その影響は世界中に広がり、今日でもその遺産は素晴らしいものである。

(2) 古王国(紀元前2686年から紀元前2181年まで)

 古王国は、エジプトの歴史の初期に位置し、有名なピラミッドが建設された時代である。最初の王朝である第3王朝から第6王朝までがこの時期に存在した。

 ギザのピラミッド(クフ、カフラ、メンカウラ王のもの)などが建設され、ファラオの権力が最も強かった時期でもある。

(3) 中王国(紀元前2040年から紀元前1640年まで)

 中王国は、古王国の後に続く時代で、文学、詩、宗教の発展など、安定と文化の発展が特徴である。

 インテフ家から始まった第11王朝と、テーベのメンフト家によって統一された第12王朝が含まれる。

(4) 新王国(紀元前1550年から紀元前1070年まで)

 新王国は、エジプトの歴史の中で最も栄えた時代で、次のような多くの著名なファラオが登場した。彼らの治世はエジプトの影響力が最も高かった時期である。

 ・ アーメンホテプ4世(アクエンアテン)は、太陽神アテンへの信仰を推進し、アマルナ時代として知られている。
 ・ ツタンカーメン王(クィング・タトシ)の時代にアマルナ宗教が終わり、再び伝統的な宗教が復活した。
 ・ ラムセス2世の時代は、カルナック神殿の拡張やアブシンベル神殿の建設があり、ヒッタイトとのカデシュの戦いの後に平和協定を締結した。

(5) グレコローマン時代(紀元前332年から紀元7世紀まで)

 アレクサンダー大王によるエジプト征服(紀元前332年)から始まり、その死後、エジプトはプトレマイオス王朝に統治された。これは紀元前4世紀から紀元前1世紀まで続いた。その最大の功績は、アレクサンドリアという新しい都市を建設したことで、これが古代世界の重要な文化的中心となった。

 プトレマイオス朝最後のファラオは、クレオパトラ7世で、有名な女性ファラオだった。彼女はローマの将軍ユリウス・シーザ、後にマルクス・アントニウスと関係を持ち、ローマとエジプトの関係の政治的な糸口を握った。

 ところが、アントニウスは、クレオパトラ7世とともにオクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗れ、エジプトは紀元前30年にその支配下に入り、プトレマイオス朝は終焉した。

 グレコローマン時代には、エジプトの伝統的な神々とギリシャ・ローマの神々が融合し、新しい宗教的信仰が形成され、エジプト固有の宗教と神話も一部は維持された。古代エジプトとクラシックなギリシャ・ローマ文化の影響が融合した興味深い時代である。

(6) イスラム化(紀元7世紀以降)

 イスラム教は7世紀初頭にアラビア半島で創始された。エジプトにおいても、イスラム教の布教活動が行われた。

 イスラム教の指導者であるカリフ・ウマル・イブン・アル=ハッターブにより、エジプトは紀元642年に征服された。このアラブ征服により、エジプトはイスラム世界の一部となった。

 これ以降、エジプトにおいては、アラビア語とイスラム教が広まり、多くのエジプト人がイスラム教に改宗した。イスラム文化や法律が導入され、アラビア語が広まったことから、エジプトの文化や社会はイスラムの影響を強く受けた。

 バグダードがイスラム世界の中心だったが、エジプトはアッバース朝の支配下に入り、この時期、エジプトは知識と文化の中心地として栄え、バグダードと並ぶ重要な都市の一つだった。


 今回の私のエジプト訪問の地には、ファラオ時代だけでなく、グレコローマン時代(プトレマイオス朝)の遺産が多い。


3.ルクソール到着

 カイロからルクソールへ行くのに国内線(Air Cairo 60)に乗った。カイロ空港で、3回も手荷物検査があったのには参った。これはターミナル1だったが、ターミナル2の手荷物検査は2回だというけれども、なぜそうなっているのかよくわからない。1997年にルクソール事件を引き起こしたイスラム過激派が、ターミナル1に向かうとでも思っているのか、、、。

 ちなみにルクソールとは、古代エジプトの中王朝から新王朝にかけて首都が置かれたテーベのことである。

 このルクソールで、ナイル河遊覧船の「アルハンブラ号」に乗船し、チェックインをした。4階建てのクルーズ船で、屋上にはプールがある。欧州からの客だと思うが、日本の縄文のヴィーナスを思い起こさせる豊かな肢体にまるで裸のような水着を着て、泳いだりのんびりとベンチに横たわったりしていた。目のやり場に困る。

 遊覧船の中で、ツタンカーメンのお墓の発見者のお孫さん(ヌービーさん)の話を聞く機会があった。彼はナイル西岸の有力な部族であるアブドラスーニー家の一族だという。やってきた本人は、あまり話が上手でなく、USBメモリーで発見時の様子や一族の写真を見せてくれた。





 ツタンカーメンの墓は、アメリカ人の考古学者ハワード・カーターが、1917年に王家の谷で発掘を始めて、1922年にお墓の入口を発見した。そのきっかけは、現場監督をしていたこの人の祖父フセインさんである。

 祖父は、発掘現場の監督だった。なかなか発掘が上手くいかずに難航している中、祖父は、作業員に水を飲まそうとして、ロバに水瓶を積んでナイル川に水を汲みに行った。帰ってきたところで、ロバが転けて、水瓶が割れた。するとその水が土に染み込んで行ったので、ここに空洞があると分かり、そこでカーター博士を呼んだのが発見のきっかけだったという。



 世界遺産の3分の1が、エジプトにあり、ルクソールには更にその3分の1がある。ちなみにルクソールとは、アラビア語で宮殿の複数形の由。


4.ルクソール神殿

 古代エジプトの中王朝から新王朝にかけて首都が置かれたテーベ(今のルクソール)にあるルクソール神殿は、まさに街の真ん中、それも街一番繁盛している市場のすぐ脇から入場する。夜の訪問となったが、昼間のように暑くなくて、ちょうどいい。ライトアップされているから、景色に深みが出て素晴らしい。







 高いオベリスク、たくさんの列柱、見下ろされる王様の像には圧倒される。台座にもオベリスクにも、象形文字(ヒエログリフ)が刻まれている。いかにも「ああ、エジプトに来た」という感がした。




 それにしても、参道の両脇に、日本の神社でいえば灯籠の行列のような、スフィンクスの行列があるとは知らなかった。これも、圧巻の光景である。


5.ベリーダンスショー

 ベリーダンスは、(身も蓋もない言い方をして申し訳ないのだが、はっきり言うと)太鼓腹のベリーダンサーが、この日の主役である。本人も踊るが、お客さんの中から適当な女性を引き出してきて、一緒に演技させるという趣向だ。



 引き出されたお客さんの中には上手い人もいて、聞くと長年フラダンスを習っているとのこと。なるほど、、、踊り方で一番の違いは、日本舞踊もフラも膝を使うが、ベリーダンスは腰を使うことらしい。

 その次は、ぐるぐる回る男性が出てきた。カラフルな二つの輪形の布を纏って、ぐるぐると回る。我々なら、数分踊っているだけで倒れそうなのだが、一向に平気な顔をしている。「すごい」のひと言である。





 隣国トルコには、スーフィズムというイスラム教の神秘主義の一派がある。これは、神との密接なつながりを追求し、個人の霊的成長と宗教体験に焦点を当てた宗教的実践として、「グルグル回る」のである。関係ないかもしれないが、ついそれを思い出してしまった。


6.王家の谷

(1)3つのお墓を見学

 朝早く午前5時45分にクルーズ船を出発して、王家の谷の観光に出かける。船は午後2時が出航の予定だから、それまでに戻らなければならない。早朝の観光だから、観光客の数は多くないし、上空の雲で影ができているから、とても快適である。気温も、30度は超えていないはずだ。

 王家の谷の全体像は「砂岩の山の谷」のような地形で、ビジターセンターにはその地表と地下の模型があった。王家の谷では、墓が62箇所も発見されている。保存のために、順番にいくつかの墓に限って一般に公開される。今回は、ラムセス4世の墓(KV 2)とその息子のメレンヴィタハの墓(KV 8)、そして幸運なことにツタンカーメンのお墓(KV62)を見ることができた。

 ちなみに、墓の意味は、生まれ変わりができるように、その人のミイラを保存する場所である。

 ガイドのアムロさんによると、古代エジプト人は、太陽が毎日沈んでいって朝にまた出てくるのは、太陽が毎日なくなって復活するものだと考えた。そしてナイル川が毎年氾濫してまた元の流れに戻るのも、やはり復活を繰り返すものだと考えていた。だから人間も、いったんは死んでも、また魂が戻ってきて復活すると信じていた。

 だから、生前と同じ形つまりミイラを作り、復活に備えた。ミイラの作成過程は必ずしも全容がわかってはいないが、基本的には塩と太陽光線で乾燥させて、あとはタールと蝋を塗って作成したと考えられている。

(2)ラムセス4世の墓



 ガイドのアムロさんが、墓の絵とヒエログリフを見て解説してくれる。

「これは、生前にしなかったり、やるべきことをやらなかったりしたことを書き連ねる死者の告白だ。

 あれは空の神の姿 → 女性がブリッジしている形 → ヌートリ神 → 空の神様が太陽を食べて、一晩でまた出てくる。

 空からお墓に向かって死者の魂が降りてきて、蛇がそれを邪魔をし、魂が勝ったら引き続き降り、再び別の蛇に邪魔をされているということを現している」
などと、実に詳しい。

(3)ツタンカーメンの墓

 最後に発見されたのが新王朝のツタンカーメンのお墓である。1922年のことで、アメリカ人ハワード・カーター博士による。




 ツタンカーメンの墓は、王家の墓の中で最新の62番目の発見である。8歳で即位して18歳で亡くなったので、ピラミッドの用意はまた準備の段階だった。そこで、もう完成していた神官の墓と交換した。神官はツタンカーメンのために予定されていた墓に埋葬されたが、そちらはやがて盗掘されて何も残っていない。交換して良かったといえる。

 ちなみにツタンカーメンのミイラは、カイロの博物館ではなく、まさにこの玄室のすぐそばに安置されていた。もっとも、あの有名なお面は、後述のとおりカイロの博物館にあった。

(4)メレンヴィタハの墓

 メレンヴィタハは、ラムセス2世の長男である。その墓は、浮き彫りのレリーフが美しい。



 ちなみに、浮き彫りレリーフにするか、それとも沈み彫りレリーフにするかのいずれになるかは、その描かれる場所による。というのは、当時は採光が不十分なので、その場所によって美しく見える方法を採用したらしい。


 外に出てバスでしばらく走ると、熱気球が何基も上がっていた。ここは、熱気球でも有名らしい。砂漠の暑い気候の中で、色とりどりの熱気球がたくさん浮かぶ風景は、なかなか「絵になる」が、惜しむらくは、逆光だった。


7.ハトシェプスト女王葬祭殿

(1)ハトシェプスト女王

 18王朝のハトシェプスト女王は、初の女性ファラオとして有名であるが、後継のトトメス3世との仲違いのために、その作った建造物は全て破壊されたという特異な背景がある。





 トトメス2世の長男はトトメス3世であるが、幼い頃からシリアに行かされた。その間、トトメス2世が亡くなり、その後、その妃であったハトシェプストは、未成年のトトメス3世の後見人としてファラオに即位した。ハプシュフストの時代は戦争をしなかったので、平和が続いた。暇になった軍隊は農業やら開拓に従事させて、経済は大いに発展したという。





 ところがトトメス3世がシリアから帰ってきて、王位の争いがあり、3世が勝ったので、ハトシェプスト女王の業績は全面的に否定され、その作ったものは全て壊されたと言われる。そしてトトメス3世はハプシュフスト葬祭殿の隣に自分の神殿を作ったが、岩が落ちてきて粉々に壊れた。いわば、天罰のようなものである。

(2)メムノンの巨像

 ハトシェプスト女王葬祭殿にほど近いところに、新王国時代に建てられたメムノンの巨像がある。これは、18メートルの高さの2体の巨大な石像で、ファラオであるアメンホテプ3世の像とされる。


 ちなみに、「メムノン」とは、ギリシャ神話に登場するトロイ戦争の英雄メムノンに由来する。


8.ネフェルタリの墓

 王妃の谷にあるネフェルタリ(美人の中の美人)の墓には、その保存の良さに驚くとともに、美しい色彩に感動した。

 彼女は、ラムセス2世の最愛の妃で、この墓は1908年に発見された。海水にいったんは水没し、そのために絵画が塩で覆われてしまった。しかしながら逆にそれが幸いして、普通のお墓より絵や色彩が保存されたそうだ。その塩を除去して修復したら、これほど美しいレリーフや絵が出て来たという。




 3300年前のもので、色彩も形も王妃の谷の中で最も良く残っている。これを最初に見てしまうと、残りの墓は大したことなく見えてしまうくらいだ。



 なお、ソニーα7でネフェルタリの墓の内部を撮ったのであるが、設定に失敗したからなのか、それとも先を急いでしっかり撮らなかったからか、全く写っていなかった。後で振り返ってみると、気温が高すぎてカメラが誤作動を起こした可能性が高いのではないかと思い至った。不具合が起こったのは蒸し暑い墓の中や直射日光が当たる場所だったことから、カメラの温度は40度をはるかに超えていたのではないだろうか。しかし、驚いたことに、予備としてiPhoneで撮った写真がよく写っていたので助かった。最近のスマホの能力向上には目を見張るものがある。


 ネフェルタリの墓を見学後、さきほどのメムノンの巨像に立ち寄り、モーターボートでナイル河の対岸に渡った。


9.カルナック神殿

 テーベ(今のルクソール)の中心的な神殿であるカルナック神殿は、4000年前から2000年かけて作られた。何代ものファラオがアムン神への信仰の証として増改築を繰り返した巨大な神殿である。

 ちなみにこちらの参道にあるものは普通のスフィンクスではなくて、羊の頭をしたスフィンクスである。それが参道の両脇にズラリと並んでいるから、思わず感動する。






 巨大な境内の中に入ると、火焔樹があり、ナイルアカシアもある。しかし、すぐに赤茶けた大地が広がる。

 カルナック神殿観光は、午前中だからまだ気温は35度程度だった。ところが、午後3時頃になると41度になるという。実に広大な敷地で、歴代のファラオが作っていったので、奥になるほど古いものがある。いやもう暑くて暑くて、見ていると熱中症で倒れる観光客もいたほどだ。

 134本の列柱が立ち並ぶ大列柱室の規模に圧倒された。かと思うと、スカラベ(黄金虫)の像その周りをぐるぐると回っている人々がいる。何かの願い事をしているのだろう。





 酷暑なのに境内は、大勢の観光客に埋め尽くされている。ドイツ語、スペイン語、英語、中国語、アラビア語、日本語が飛び交い、まあその喧騒たるや、推して知るべし。

 内部の壁にしても列柱にしても、今は色がすっかり褪せてしまっているが、本来はもっと彩り豊かだったようで、その名残りがあちこちに残っている。顔料は原則として石で、薄青い色はトルコ色、濃い青はラピスラズリ、白は石灰岩、赤は鉄のサビ、黒は墨、緑はマラカイトだという。レリーフの彫りを深く掘って顔料を入れ、最後は卵の白身を使うようだ。それも、ダチョウの卵などの大きな卵らしい。


10.エスナの水門


 船は順調に上流に向けて出航した。私は、朝が早かったのと、炎天下に歩き回って疲れたことから、午後3時頃から昼寝をすることにした。ベッドに入った瞬間に寝てしまい、起きたのが午後6時である。途中でワイワイ騒ぐ声がしたが、眠すぎてそのまま寝続けた。少しの間、起きて窓を開け、外を見ると、船はナイル河を順調に航行している。



 部屋でまどろんでいると、「ハロー、ハロー、ハロー」と騒がしい。起きて見に行く気力もないので、そのまま休んでいたところ、そのうるさい声がやがて遠のいて行った。翌朝、それが何かわかった。物売りの小舟が近づいてきて、クルーズ船の乗客相手に何やら売り付けているのである。

 本日の夕食は遅くて午後8時からだ。その途中でエスナの水門をこの船が通るという。たまたま食事中に通ることになったので、コース料理の半ばで食べるのを中断して見に行った。

 屋上から見渡すと、水門に向かってたくさんの船が並んで水門通過待ちをしている。左隣の船と並んで停船していると、その船が先に出航して行った。続いて我々の船だ。水門には横に2隻、縦に2隻が入る。手漕ぎボートが、水先案内人として先導してくれる。船の両脇には、船員が大声を出して進路を調整中である。壁との間は、僅か数十センチほどしかない。そんな狭い空間に、あんな大きな船が、よく入るものだ。



 ようやく水門内に入ると、先の方に行って止まる。後尾の船が入って水門が静々と閉まり、水がどんどん上がってきて、船体が浮き上がる。やがて水のレベルが上流と同じになったと思ったときに、前の門が開いて、船は進み出す。それだけで、簡単な仕組みだ。


11.ホルス神殿

 ナイル河西岸に位置するエドムのホルス神殿は、グレコローマン時代の遺跡である。長年、砂漠に埋まっていたことから、エジプトで最も保存状態の良い神殿だという。







 紀元前237年から57年にかけて建造されたもので、プトレマイオス3世の時に始まり、12世の時に完成した。祭神はハヤブサの形をしたホルス神で、北のデンデラにある神殿にいるハトホル神(女神)と夫婦で、毎年、ハトホルがエドフのホルスを訪ねてデンデラの神殿より南へと旅する。まるで織姫と彦星の話のようだ。その2人の神の聖なる結婚を示す行事が、エジプトの大規模なお祭りと巡礼のきっかけとなった。最も奥には、聖なる舟がある。これが、お祭りでは一番敬われたそうだ。




 ガイドのアムロさんによると、「オシリス神の子ホルス神は、小さな頃から母イシス神より『あなたのセト叔父さんは、父の仇よ』と教えられ、成人してセト叔父と戦って、これを殺した。その過程を描いている壁面のレリーフがある。この中でセト叔父は、カバの形をしていて、それをホルス神が銛で突いて捕獲し、チェーンで繋いで船で運び、裁判にかけて死刑にする情景が描写されている。ちなみにオシリスは、もう殺されないように、冥界の神となった」とのこと。


 「ホルス神の彫刻が、神殿の入り口に2体ある。特に向かって左の方が保存状態が良い。帽子を二つ被っているように見えるが、上エジプトと下エジプトを象徴している」そうな。その前で写真を撮ってもらったが、我ながら一番気に入った写真となった。


12.コム・オンボ神殿

 コム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年)に作られた世にも珍しい二重神殿である。つまり、二つの祭神、セベクとハロエリス(大ホルス)が祀られているので、神殿の構造も左右対称に作られている。

 ナイル河を北から南へと遡上して、この神殿前の船着場に到着した。神殿は、そこから歩いて数分の所にある。

 コム・オンボ神殿の見学は、午後4時頃に下船して行ったのだが、もう船を降りた瞬間、もの凄い暑さに出くわした。後から聞くと摂氏42度だというから、私の経験したことのない暑さだ。それは、肌がチクチク刺されるような感覚で、素肌を露出すると、痛い。

 持っていたタオルを鼻や口にあてると、その嫌な感じはなくなる。考えてみると、アラブ女性のあの全身黒ずくめのカラスのような格好は、宗教上の理由だけでなく、この気候に合っている服装なのかもしれない。





 ガイドのアムロさんが、ヒエログリフで壁に書かれている象形文字を読んでくれた。それは表音文字で何と「クレオパトラ」だった。もう少し先に行き、壁面の絵画を指して、「古代エジプトは医学が発達していて、ヒッタイト人が捧げ物を持ってやってきた(と、左の方の人物を指す)、右の人物が医師で、その真ん中に描かれているのが診察です。そして、医師の左手の丸椅子の上に描かれた象形文字が処方された薬で、食後、毎日飲めとか書いてあります」などと説明してくれた。

 あるいは、別の壁画を指さして「古代エジプトは、種蒔きや収穫の時期を知るため、独自の暦を発達させた。それは、今のような1週間に相当するのが10日単位で、ここにそれが、ずーっと書かれている」と説明してくれる。

 余りに精緻な説明なので、私が「アムロさんは、ただのガイドではないですね。古代エジプトの専門家でしょう?」と聞くと、「2年間留学して古代エジプト史のディプローマを持ってます。早稲田の吉村作治先生はよく存じ上げていて、一緒に仕事をしたことがあります」という話だった。これは素晴らしいガイドに当たったものだ。



 井戸のようなものがあり、覗くと螺旋階段が下に続いている。ナイルの水量計だという。どういうことかというと、古代エジプトでは、ナイル河の水量が、その年によって大きく変化していた。水の量が多いと、その分、耕地が広がるので、税金が高くなる。しかし、水の量が少ないと耕地が痩せ細るので、税金が少なくなるという制度があり、そのためにその年の水量を計測する施設なのだという。こんなものが数千年前からあるなんて、非常に合理的で、感心してしまった。

 ワニの剥製が並んでいる建物があった。意味がよくわからなかったが、当時はワニも、人々から畏れられ、かつ敬われる「聖獣」だったらしい。


 古代エジプトで、どうやってこの石の壁を積み上げたのかという疑問を解消してくれる所があった。アムロさんによると、「それは、入り口の近くに、日干し煉瓦が斜めに積み上げられた箇所があり、これがヒントだという。つまり、あの石のブロックは、人が抱えて積むものなのだけど、せいぜい高さが3個までしかできない。それ以上になると、その積む高さまで日干し煉瓦で斜面を作る。そこに更に3個積み上げ、それが終わると更に斜面を作ってそこに3個積み上げるという手順でやっていった」そうだ。


13.イシス神殿

 3日間過ごしたクルーザーを下船し、ナイル河を航行する帆船ファルーカに乗った。周囲の河岸には、椰子の木などの緑が生えていて、その向こうには砂岩の岩山があり、よく見ると連続して横に穴が空いている。貴族の墓だそうだ。





 我々の乗ったファルーカは、残念なことに、風が全くなくて漂っている。そこで、エンジンのある船に引航してもらって、ようやく動き出した。ファルーカの船長さんは、色が黒い。はやい話が黒人だ。ヌビア人だそうだ。ちょっとしたタンバリンで歌を披露し、かつ女性の飾り物や木の彫り物を売っていた。面白かったのは、両脇を押すと動くワニの木像だった。そこから約20分間、バスに乗り、アブシンベルと同時に移設されたイシス神殿に向かう小舟に乗った。

 イシス神殿(フィラエ神殿)は、豊穣の神であるイシス神を祀っている。現存する神殿はプトレマイオス朝時代に建設され、その後ローマ時代にかけて増築が繰り返された。





 この神殿も、アブシンベル神殿と同様にアスワンハイダムの建設により水没することになっていたが、その当時あったフィラエ島から、近くのアギルキア島に移築されて保存されることとなった。




 アムロ説明によると「イシスはオシリスの妹であり妻でもあり、またホルスの母である。イシスの夫であるオシリスは、弟のセト神に殺され、身体をバラバラにされて川に流されるが、イシスがそれらを拾い集めてオシリスを復活させた。オシリスは復活後は冥界の王となり、古代エジプトの重要な神として崇拝され、また穀物の神としても民衆にあがめられていた。

 ホルス神は天空と太陽の神であり、猛禽類の隼の頭をした男性神として現れる。エジプトの王朝の初期においては、王はホルス神の化身とされ、ホルスとは即ち王を意味する存在であった。イシス神殿のあるフィラエ島は、女神イシスがホルス神を生んだ聖地であり、それを崇拝するために神殿が築かれた」とのこと。

 太陽は、朝は丸い形で、昼はハヤブサ、夜はスカラベ(黄金虫)の形になる。確かに、それを示した壁画があった。


14.未完のオベリスク

 アラビア語で、オベリスクというのは布団用の大きな針という意味。なぜこんなものを作ったかというと、ピラミッドの代わりなのだそうだ。

 ピラミッドは盗掘されてしまうので、色々と試行錯誤の上、先端がピラミッドと同じ三角形(エジプト人にとって、聖なる形)のオベリスクになった。これは宗教的なものなので、ただ立てられているだけである。もちろんオベリスクの下には、別にミイラなどの埋葬物はない。



 見学してきた「未完のオベリスク」は、製作途中で放棄されたものである。全てのオベリスクは一枚の花崗岩から出来ていて、どのオベリスクもここから出荷されたものだという。

 掘り方は、一枚岩に穴を開けて、その隙間に乾いた木片を詰める。それが水を吸って隙間を広げていき、やがて空間が広がるということらしい。現に、古代の木片が刺さっている場所があった。

 例えばこの未完のオベリスクは、高さ41m、重量が1,160tもある。運ぶのは、大変だ。ナイル河の渇水の時に筏を用意し、その上に載せ、季節が過ぎるのを待って水位が上がると、水に浮かぶ。そうやって下流に向けて航行して運んだという。


15.アスワンハイダム

 アブシンベルに向かう途中、アスワンハイダムに立ち寄った。軍隊が守る重要施設である。ダムの上流は細長い流れで、ダムの下流には、見渡す限りの広大な水面が広がっている。なるほど、これなら、相当広範な地域が水没したはずである。ブーゲンビリアの可憐な花が美しかった。





 引き続き、アムシンベルの街に向けて、砂漠の中をバスでひたすら3時間近く走った。文字通りの一本道で、両側が砂漠というか、土漠である。見渡す限り、黄土色で真っ平らで何にもない。それどころか、遠くに何やらフワーッと浮かんでいるから、「あれは何だ」と聞くと、蜃気楼だという。これはすごい所に来たものだ。


 このヌビア砂漠は、サハラ砂漠の東端の一部だという。その中を走りに走る。送電線が見えたと思ったら、途中でドライブインがあった。バスはそれに立ち寄った。まさに干天の慈雨かと思ったが、バスを降りた途端に、熱波が顔を打ち、暑くてチクチクする。これはたまらないと、慌ててバスに戻った。気温は、43度だという。コム・オンボ神殿の時より高い。こんな経験、人生で初めてだ。

 更にバスが進むと、緑が少し見えてきた。脇から合流してくる道路に沿って、椰子の木がポツポツと生えている。その脇にはアパート群があるが、誰も住んでいないようだ。こんな厳しい自然条件の中で、どんな人たちが住むというのだろう。

 地形に起伏が出てきたところで、道路を横断する「運河」があった。しかも、滔々と水をたたえている。そこから水を引いているのだろうか、丸くて広大な緑があちこちにある。作物はトウモロコシらしい。丸の真ん中から長い棒が突き出ていて、ゆっくりと回って水を撒いている。ガイドによれば、ダムの余剰水に地下水を足して、こうした灌漑農地を作っているそうな。

 道がガタガタになってきた。バスは、ゆっくり走り、穴を避けて左右へと車体を揺らす。やがて、またちゃんとした舗装道路に戻った。ラクダを乗せたトラックを追い越した。アムシンベルの街に、ラクダの検査場があり、健康なものだけを選別するそうだ。

 やっとこの日の宿泊施設である「セティ・アブシンベル・レイクリゾート・ホテル」に到着した。ナセル湖に面し、屋外プールを二段に配置した、趣きのあるホテルである。




 残念なことに、Wi-Fiが各部屋になくて、いちいちリセプションやコーヒーショップに出向かないといけない。この40度を超す暑さの中、とんでもない。そこで、自室に一番近いコーヒーショップでWi-Fiに繋ぎ、ゆっくり歩いて自室の前まで来た。嬉しいことに、まだ繋がっている。そこで、ドアを開けて中に入り、それをバタンと閉めた瞬間、無情にもWi-Fiが途切れた。もはや笑うしかない。


16.アムシンベル神殿

 この壮大なアムシンベル神殿は、ラムセス2世が作った。全部が一つの岩山から成り、それを水平に51mまでくり抜いて作ったもの。3300年前の建造である。

 なぜこの地にこんな大規模な神殿を作ったのかというと、次の4つの理由がある。

(1)10月と2月の22日に、太陽が差し込んでくるように作ってある。ちなみに10月22日はラムセス2世の誕生日、2月22日は、戴冠記念日である。
(2)愛妃ネフェルタリの出身地である。
(3)金山がこの地に数多くあった。
(4)まだ南方のヌビア人と争っていたので、エジプト王朝の権威を示すためでもあった。

 なお、(1)で22日と記したが、元々の場所は、10月21日と2月21日なのだそうだ。アスワンハイダムに沈むから、60m上で場所も動いたため、1日ずれてしまったようだ。それとも、3000年の間に、暦がズレてしまったのかもしれない。




 まず、夜の音と光のショーとプロジェクションマップを観に行った。暗い中を足元の街灯を頼りにかなり歩いて、大神殿と小神殿の両方を見渡せる座席に落ち着いた。ちなみに、大神殿は新王朝19代ファラオのラムセス2世を祀ったもので、小神殿はその愛妃ネフェルタリのためのものである。ガイドが、レシーバーを配り、放送の翻訳が流される。放送はその日最も数が多い観客の言語で行われる。この日は、アメリカ人観光客が多かったので、英語である。

 暗い中、始まった。おそらく遺跡を傷つけないようにとの配慮からか、投影される光の量が少ないので、最初は画像がよくわからなかった。しかもこの晩は満月に近かったから外が明るく、それもあって肉眼ではあまりよく見えない。そこで、iPhoneでビデオを撮ろうとしたら、これはすごい。何が映っているのか、よく見えるではないか。もはや目の力を超えている。内容は、

(1)ユネスコの協力で水没から免れたこと。
(2)ヒッタイトとの度重なる戦争の末に和平条約を結んだこと。
(3)愛妃ネフェルタリのこと。
(4)ラムセス2世の治世の素晴らしさなどである。



 翌朝、歩いてアブシンベル神殿に行く。見上げると、実に大きい。左側にある大神殿には高さ20mの4つの巨像があり、いずれもラムセス2世の像で、左から右へと、壮年期から老年期にかけての像とされる。巨像の足元には、妃や子供達の小さな像がある。左から二番目の巨像の頭部分が欠けているのは、地震によって倒壊したものだそうだ。その崩れた部分は、像の足元に転がっている。







 大神殿に入り、左手の壁面には、戦車に乗ってヒッタイト族と戦うラムセス2世の姿がある。ガイドのアムロさんによれば、これは世界最初の3D画像だという。その馬の脚を見ると、2本のはずが細かく4本に分かれており、弓の弦も二重に描かれている。これらは、激しい動きを表しているのだそうだ。なるほど、そうかもしれない。





 小神殿は、正面に2体の王妃ネフェルタリの像とその脇に2体ずつ計4体のラムセス2世の像があり、像の足元には、彼らの子どもたちが並んでいる。こちらには、大神殿の場合と異なり像と像との間に仕切りが存在する。中に入ると、牛の姿をしたハトホル女神のレリーフがある。




 かくしてアブシンベル神殿の見学が終わり、アスワン空港に向けて来た道を引き返した。再びあの土漠の中の一本道をひた走る。きっちり3時間後にアスワンの街に着いた。空港への道すがら、繁華街を通り過ぎていると、細ーい枠を元に建物を作っている。これでは、地震が来たら一挙に倒壊するのではないかというレベルだ。そう思うとエジプトの建物という建物が怖い気がする。

 アスワン空港から、プロペラ機に乗って、一路カイロに向けて出発した。これは、エジプト航空のLCC子会社であるエア・カイロなのだが、機内に空調がないのには、参った。暑くて暑くてかなわない。機内の送風口からも、生暖かい風しか出てこない。カイロからルクソールに行った時は、同じエア・カイロのプロペラ機でもちゃんと空調が効いていたのに、これは何としたことか、、、早くカイロ空港に着いてほしい。そうでないと、屋外では熱中症にならなかったのに、機内でなりそうだ。

 ようやくカイロ国際空港に到着した。機内で水が配られたので、ひと息ついたのと、座席の背面にある航空機搭乗のしおりがたまたまプラスチック製だったので、皆がそれをうちわ代わりにバタバタやり出したので、私も倣った。すると、少しは涼しくなった。

 カイロに着いたのだが、またまた不合理なことに直面する。同じターンテーブルに、何と4機分が集中するので、その場がまるで豊洲市場の競り市のようになっている。だから、なかなか出て来ない。かなり待ってやっと出て来たので、荷物を引っ張っていってバスに乗った。すると、同じ駐車場にバスが5〜6台停まっているのに、ポリスが「全部のバスが揃わないと出させない」などとめちゃくちゃなことを言う。そのせいで、更に40分近く待つ羽目になった。こういう融通の効かないところが、なかなか発展できない理由なのだろうか。





 カイロで、パピルス屋さんを立ち寄った。パピルスは、先端がはたきのようになっていて、幹の断面が三角形であり、それを薄く縦に切る。それを縦横に組み合わせて平らにしたものを1週間以上プレスすると、紙の代わりのパピルスができる。これを使って記録されたのが、古代エジプトのパピルス文書である。こんな簡単なものだったのかと驚く。

 パピルス屋さんでは、ピラミッドその他のお墓の中の絵をモチーフに、人物、命の鍵、太陽、スカラベ(黄金虫=糞転がし)など色々な芸術的な絵が描かれている。


17.ギザのピラミッド

 「ギザ」というのは、「入口」という意味で、砂漠の入口となる地域を現しているらしい。大小9つのピラミッドが見える展望レストランがある。

 中でも大きな3つのピラミッドの被葬者はクフ王、カフラー王、メンカウラー王である。それぞれのピラミッドには王妃たちのピラミッドや参道があり、カフラー王のピラミッドの参道入り口には、ギザの大スフィンクスが聳え立つ。

 クフ王のピラミッドが建造されたのは4600年前で、240万個の石でできている。14階建の建物に相当する。かつては上部が金色で、よく目立っていたと思われる。



 ガイドのアムロさんによれば、「ピラミッドの建設には、まず下地となる基礎を真っ平らにしなければならない。そして石の切出し、積み上げという過程をたどる。こんな大変な工事なのに、20年間で完成した。それも、農民だから一年間に6ヶ月しか働かなかった。それも嫌々働いたかというと、そうでもなく、王は神の化身で復活の権利を持っているから、その役に立つのは名誉と思って喜んで建設に従事した」らしい。

 また、アムロ情報によると、「ピラミッドの建設方法は、下から3分の1までは、コム・オンボ神殿で述べたように、日干し煉瓦を斜めに積み上げて坂を作ってそこの上を運ぶやり方である。残る3分の2は、螺旋階段のような構造を作って積み上げていくやり方だというのが有力とのこと。いずれも、木でソリのようなものを作ってそれを引っ張るのだという。そのソリも出土しているとのこと。石の大きさは、上に行くほど小さくなる」由。





 クフ王のピラミッド内部の見学は、暑くて、急な傾斜で、狭くて(中腰にならないと通れないトンネルがあるから、そういう所で時々頭を天井にぶつけて)玄室まで往復1時間のアドベンチャーだった。大袈裟に言うと、気温43度の屋外とさして差はなく、この墓の中で熱中症になりかけた。昔の墓泥棒も、さぞかし大変だったろうと思う。



 ちなみに王家の谷では、墓泥棒がそうやって見つけた墓の入口に家を建て、何代にもわたってその恩恵に預かったそうだ。笑うしかない。


18.スフィンクス

 古代は、スフィンクスの前が船着場だったようで、そこに河岸神殿があった。王の遺体を乗せた船が横付けされ、細い登り坂を運ばれて、ピラミッドの脇でミイラにされたようだ。



 スフィンクスとは、「ライオンの胴体と人頭をもった怪獣で,古代エジプトの王権の象徴、百獣の王としてのライオンが神格化された王ファラオと合体したと考えられる。聖域守護などの目的で,各種の神殿の前に配置された」そうだ(旺文社世界史事典 三訂版)。まあ、日本の神社でいえば、狛犬のようなものか。

 このギザの大スフィンクスを作らせたのは、クフ王という説もあるが、紀元前2500年頃に第四王朝カフラーの命により、第2ピラミッドとともに作られたという説が有力である。


19.エジプト考古学博物館

 エジプト考古学博物館(通称:カイロ博物館)は1901年の建築であまりに古いので、新しく博物館を作って移転中とのこと。例えば、ミイラは既に新しい大エジプト博物館(2023年12月開館予定)に移されている。そういうことで、この古い博物館には冷房がないので、ひどく暑かった。

 ツタンカーメン王の展示室だけエアコンが効いていることもあり、外はあまりに暑いから、ここに入り浸り状態である。有名な黄金のマスクがあり、金色を基調に、髪の青い線は高価なラピスラズリ、その他、赤やら黒やらが使われている。ただ、残念なことに、この部屋だけ写真撮影は許されていなかった。仕方がないので、黄金のマスクは、外のお土産屋さんで撮った。




 ミイラには、この黄金のマスクが被せられ、その形で小型のお棺に入れられ、それがまた大きなお棺に納められる。その形で玄室の石棺の中に収まるとのこと。ロシアのマトリューシカ人形のようだ。





 5000年前に上下エジプトを統一したナルメル王のパレット、サッカラの階段ピラミッドを作ったジョセル王ゆかりの品、発掘した時に自分たちの村の村長さんとそっくりの木像が出てきたので、ついた渾名が「村長さん」、金の長持ちの周りを両手で囲むような金の女性像、まるで4人でお風呂に入っているかのような像とか、色々あって楽しかった。


20.後書き

(1)私は、先進国の首都や大きな都市なら、往復の飛行機と泊まる宿を確保して、自分で行く自信はある。ところが、論理も社会も生活習慣も違う上に交通が不便なエジプトのような国になると、やはりツアーに乗るのが安全である。

(2)私が、日本で初めて発売されたカラーノートパソコンを購入したのは、1991年のことだったが、それからほどなくウィンドウズ3.1というソフトが発売されて、それ以降、マイクロソフトの現在の隆盛に繋がった。

 ところで、その3.1を開いてみると、壁紙にペルーのマチュピチュ遺跡と、エジプトのピラミッドが載っていた。それをつくづく見ていると、まあその魅力的なことといったらない。だから、この2箇所には、いつかは行ってみたいと、かねてから思っていた。既にマチュピチュについては行ったので、残るはピラミッドだけである。

(3)ということで、クラブツーリズムのツアーに参加することにした。当日、成田空港に着いてみると、二つびっくりしたことがある。その一つは、添乗員が突然変更になったことである。何でも、身内に不幸があったらしい。

 代わりに来てくれたのが、前日の午後10時に急遽代わってくれと言われたという添乗員さんで、前々日にカンボジアから帰ったばかりだという。こんなこともあるんだ、、、。それにしても、タフでなければ務まらない職業だ。

 次は、ツアーといっても参加者はわずか5人で、しかも添乗員を含めて私以外は全員女性だ。お客さんは、母と娘が2組と、私という有様。何でも、出発直前に何人かが脱落したということで、それでも中止にならないのは、「出発確定」とアナウンスしたからだという。日本の旅行社らしい生真面目さだ。その新しい添乗員の山崎さんによると、過去、参加者が僅か3名ということがあったらしい。

(4)エジプトに行くということで、事前に友達に聞いてみたら、お腹を壊したという人が何人かいたので、生ものは食べず、かつ日本からペットボトルの水を10本と、食べ物が合わない時に備えて食料を幾つか持っていくことにした。加えて、旅行会社からもらった冊子には、「エジプトでは、ホテルにはシャンプーとコンディショナー、ボディーソープと歯ブラシのないところが多いので、これらは持参してください」などと書かれている。これらを買い込んだせいで、大きなトランクの重量は22キロと、制限の23キロギリギリである。

 それで、どうなったかというと、クルーズ船も含めて、さすがに歯ブラシはなかったが、それ以外のものは揃っていた。また、水もホテルで1本、バスでも1本もらった。だから、心配することもなかった。もっとも、大汗をかいたので、持参した日本のペットボトルも1日1本飲んでいたから、ちょうど良かったといえる。ただし、エジプトのペットボトルの水は硬水のようだから、これに弱い人はいわゆる「水が合わない」ということになるので、飲まない方が無難である。

 生ものは、最初は食べないようにと思って、一泊目のホテルでは、サラダや果物は食べなかったが、やはりこういうものは身体が欲する。二泊目のクルーザーからは、思い切って食べ始めた。サラダといっても、トマト、レタス、きゅうり、デーツ程度だけど、美味しいし、特に問題はなかった。その調子で、生ジュースにも挑戦してみた。マンゴーとストロベリーのダブルである。いや、実に美味しくいただいた。もう一杯、注文したほどだ。

 レストランの飲み物の支払いは、全て米ドルで事足りる。あらかじめ八重洲口の両替屋で、1ドル札と10ドル札ばかりに両替しておいたから、助かった。ちなみに、観光地で物売りが寄ってきて、「ワンダラー、ワンダラー」と叫んでいる。本当にワンダラーかと思って聞くと、「これは、ツウェンティダラー」と言う。ではあの「ワンダラー」は何かというと、ただ「いらっしゃい、いらっしゃい」と言ってるのと同じことだと分かった。笑い話だ。






(令和5年9月30日著)
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