悠々人生エッセイ



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目          次 
 1  タイ北部は未踏の地   13  ホワイト・テンプル
 2  城壁とお濠の街 14  スカイウォーク
 3  ドーイ・ステープ寺院 15  黄金の三角地帯
 4  三人の王のモニュメント 16  ミャンマーとの国境の街
 5  チェンマイの小樽 17  ムーン・マイ・レストラン
 6  民族舞踊 18  イルミネーション輝く時計塔 
 7  首長族(カレン族)の村 19  ファイ・プラ・カン寺院
 8  エレファント・パーク  20  カシューナッツ富豪   
 9  ワン・マーケット 21  中国マーケット 
 10  レモンツリー・レストラン 22  中国式しゃぶしゃぶ   
 11  ナイト・マーケット 23  旅を振り返って
 12  天然温泉 24  八方塞がりの日本の将来   

 タイ北部への旅( 写 真 )は、こちらから。


1.タイ北部は未踏の地

 タイのバンコクには、仕事とプライベートを合わせると、これまで3回、行ったことがある。会議とゴルフだ。かつてゴルフに熱中していた頃は、バンコクのゴルフ場が4ボール(組)どころか6ボールまで認めて、かつ一人のゴルファーに6人ほどのキャディが付いた。それがまた珍しくて、面白かった。グリーン上に前の組が上がると、その42人がワイワイガヤガヤとまるで蟻のように群がっていたのを思い出す。


 それ以外は、渋滞と大気汚染の思い出しかない。私は、もうゴルフもしなくなった。そこで今回は、まだ訪れたことのない北部のチェンマイ(Chiang Mai)と、さらにその北のチェンライ(Chiang Rai)に行ってみた。チェンマイ空港に到着したところ、ミス・チェンマイがレイを持って迎えてくれた。大歓迎である。


2.城壁とお濠の街

 チェンマイは、バンコクの北720kmにあるタイ第二の都市である。その旧市街は、13世紀末に王都として作られた一辺1.5kmの正方形の形をしている。昔は周辺の小国や大国ミャンマーとの争いが絶えず、その侵入を阻止するために、城壁とお濠が周囲に作られた。その城壁と濠の一部がなお現存していて、観光客がそれを見物しに集まってきている。


 ターペー門の一辺が騒がしい。人だかりがしている。古代劇の映画の撮影かと思ったら、そうではない。観光客の一部が戯れに古代衣装を着て、写真を撮ってもらっているだけだ。しかも、その貸し衣装屋が、餌を巻いて鳩を誘き寄せ、集まった鳩の群れを今度は逆に脅かして一斉に飛び立たせる、それを背景とする写真を撮るという凝りようだ。日本だと動物愛護法違反になりかねない。


3.ドーイ・ステープ寺院

 チェンマイに来たら必ず立ち寄るべき名所として、標高1600mのところに位置するドーイ・ステープ寺院(ワット・プラタート・ドーイ・ステープ、Wat Phra That Doi Suthep)がある。ドーイとは、山のことらしい。曲がりくねった道を延々と登って行き、ようやく頂上近くに着いた所で、簡素なケーブルカーに乗ってやっと到着だ。




 タイ音楽が迎えてくれる。人々が寄進した金ピカの仏の坐像が沢山ある中を抜けて行くと、視界がスーッと開けて金ピカのパゴダがある。青い空を背景に金の板が貼り付けられたパゴダとその周りの天蓋のような飾りに、綺麗なものだなと、思わず見惚れる。その周りを回っていくと、ほとんどの仏像が金ピカなのだが、稀に緑色の仏像や、青色のものすらある。これでも良いのかとガイドに聞くと、サファイアやエメラルドのような高価な材料を使えば、それだけ功徳が高まるとのことで、仏像は仏像だから、あまり気にしてないようだ。Sara treeと書いてある木があり、ソフトボール大の茶色の実が生っているので、ホウガンボクだ。実が落ちても大丈夫なようにネットまでかけてある。



 ガイドが、仏像が安置してある部屋の中に入って行って、木綿の糸で作った紐を手首に結んでくれた。仏様と結縁の意味があるそうだ。それから転じて、強くなるとか、幸せになるとか、色んな功徳があるという。その晩は、お風呂に入る時も寝る時も、そのまま手首に巻いて寝たが、「いつ取るのだろう」と気になってガイドに聞いたら、「2〜3日で良い」とのご宣託だった。


4.三人の王のモニュメント

 チェンマイの街は、16世紀半ばまで、ランナータイ王国の首都であった。この像の中の中央の(ランナータイ王朝をつくった)マンラーイ王が主導して、右側の(スコータイ王国の)ラムカムヘーン王、左側の(パヤオ王国の)カムムアン王が協力して作られたものだという。それはいつで、なぜ3人だと聞いても、今回のガイドは歴史の知識が乏しくて、何にも答えられないのが困るのだが、どうやらこういうことらしい。当時のタイ北部は、各地方に別れた群雄割拠の時代で、その中でもこの3人の王はお互いに争わないとして協力し、このチェンマイの街を新しく作り上げたそうだ。チェンマイというのは、「新しい(マイ)」「町(チェン)」という意味らしい。


 ちなみに、これから行く北部のチェンライの街は、「ライ」とあることからもわかるように、マンラーイ王の本来の根拠地だったようだ。


5.チェンマイの小樽

 面白かったのは、「Otaru川辺地区」である。数年前まで、ゴミが散乱して悪臭を放っていた川があった。それを綺麗に清掃して「Otaru川」と名付け、川の両岸を散歩出来るように遊歩道を設け、しかも花まで植えた。ほんの1年前のことである。そうすると、川辺りに物を売る店が増え、また川を横切るように橋まで架けて対岸に渡れるようにしたところ、散歩する人が増えたという。




 そこで、「どうして『Otaru』なの?」と聞いたら、「もちろん、北海道の小樽のことさ」と言うので、「あれは、川辺りに遊歩道はあるけど、対岸は倉庫群だよ。あまりにイメージが違うのだけど」と言うと、「まあ、細かいところは気にしない(マイペンライ)」のだそうだ。かくして、こんなタイ北部の地に、小樽の姉妹川ができてしまった。もう、笑い話だ。


 珍しかったのは、観光客の振る舞いだ。多分、中国人だと思うが、古代の衣装、それも髪型と上半身は王朝風、下半身はゾロリとしたタイ風のスカートを巻いて、いかにも幸せそうに、写真を撮っていたことだ。最近の彼らの流行りだそうだ。


6.民族舞踊

 カントケとは、大きな容器に料理を盛り付けて出す田舎の風習らしい。この名前の伝統芸能の民族舞踊が見られるレストランに行った。その名の通り赤い大きな容器にたくさんの料理が盛り付けられていた。中心にグリーンチリのペーストが置かれ、その周りにはスティック状の野菜、キュウリ、ニンジン、キャベツなどがある。これはもう、とてつもなく辛くて、口にするどころではなかった。その周辺には、照焼チキン、野菜煮、ビーフンなどがあり、これらで何とか夕食になった。


 ポコン、ポコン、ニャーラララーという軽快な音楽に乗って、女性の踊り手が6人ほど現れて、優雅な踊りを披露してくれる。手の先まで神経が行き届いているようで、まあその優雅さといったら、これ以上のものはないほどだ。何種類かの踊りの中に、蝋燭を両手でもって、それをこねくり回す踊りがあり、これには感心した。





 男性の踊りもあったが、これも両手をこねくり回すスタイルで、男女に共通するようだ。ただ、男性の場合は銅鑼を叩いたり、剣を両手に持ったりして、優雅さとは程遠い。そのどちらもビデオと写真を撮って、大いに満足した。これだけでも、、タイ北部まで来た甲斐があるというものだ。







7.首長族(カレン族)の村

 翌朝、チェンマイ近郊のエレファント・パークに向かう。途中で、首長族の村(Long Neck Village)に立ち寄る。ガイドに、「はて、『首長族(Long Neck Tribe)』とは、ひょっとして首に金属の輪を重ねている人たちか?」と聞いたら、「そうだ」と言う。「あれは、ミャンマーの奥地に居る人々ではないか」と聞くと、「最近の軍と少数民族や民主派などとの武力闘争で、危険を感じてタイに逃げ出してきた人々だ。タイはミャンマーと違って少数民族を迫害するような阿漕なことはしないし、彼らはここに来て、観光で暮らして多少のお金も入るから、ハッピーではないか」と言う。



 山間の普通の谷のような所に着いた。電気はかろうじて通っているし、沢水だろうが上水も来ているようだ。もちろん、舗装などはなくて、剥き出しの土の谷間である。そこの両側に粗末なバラックがあって、そこに手作りの土産物品を並べてある。てっきり売り子の女性が首長族かと思ったら、そうではない。首に何も巻いていないし、そもそも違った民族衣装を着ている。ビレッジの入り口の説明板によると、これは全く別の種族だ。首長族はもっと100m先らしい。

 歩いていくと、それらしき売り子がいた。首に、真鍮製の輪をたくさん巻いている。まだ若い子だ。その隣には、年配の女性がいて、これが確かに首が長い。30cmはありそうだ。ガイドによると、首が長い方が美人ということで、そういうものを付けるそうだ。しかし、重たいし、寝るときも大変だろうと思うが、寝ている姿の写真もあった。更に進んでいくと、わずか3歳ほどの幼女にも付けている。近代的価値観で物を申すのもよろしくないとはいえ、これは、女性虐待ではないかと思うほど本当に妙な風習だと思いながら、その場を後にした。


8.エレファント・パーク

 そこから30分ほど行って、象がたくさんいるメーサー・エレファント・キャンプ(Maetaeng Elephant Park)に着いた。運動場のようなところに面して、粗末ながらも100人ほど座れそうな見物席がある。我々は最初の客だったから、どこに座っても良かったが、万が一にも席が壊れて潰れてしまったら怖いから、前から二番目の列にした。それでも途中、皆が手拍子をした時に、観客席全体がいささか揺れたので、大丈夫かと心配になった。




 象のパフォーマンスが始まった。8頭ほどの象が、象使いを乗せて出てきた。一斉にお辞儀をし、フラフープを鼻で器用に回す。丸太ん棒を転がしたり、サッカーすらできる。感心したのは、象が鼻でサッカーボールを高く飛ばし、それが落ちてくる所を足を曲げてボレーシュートをした時だ。運度神経がそれくらい良いのだ。そうかと思うと、お客さんを象の前に立たせて、象がその肩越しに鼻を伸ばして斜めに抱きつくとか、象使いが自分のパナマ帽を象の鼻に渡すと、象がそれをお客さんに被せるとか、もう自由自在だ。お客さんも、バナナの束を買って、それを象に食べさせている。




 びっくりしたのは、象が絵を書いたことだ。それが、とても上手なのである。もちろん、象使いが筆に色を付けて渡すという補助をするのだが、例えばまず、鼻で縦に木を2本書く。しかも、すらすらと自然に書くのだ。それで、木の上部に広がるような枝を書き足す。それから、ポンボンという調子で木の上に花々を書く。そして、真っ白な下半分に、緑色の草地のような情景を描く。最後にその2本の木の間に、象自身の姿を書いておしまいだ。絵は、もちろん象によって違う。かなり訓練したのかもしれないが、少なくとも私よりは上手だと認めなければならない。いやはや、驚いたのなんのって、、、




 それが終わると、いよいよ乗馬ならぬ乗象の時間だ。象の背中に括り付けられた二人乗りの座席の真ん中に、一人で座る。歩き出すと左右に10cmほど揺れる。だから、両手を伸ばして座席の背中にある持ち手に掴まる。象が、川に入っで行く。深さはさほどでもない。せいぜい、象のお腹にも届かない水深だ。そこをしずしずという感じで進んで行く。川から上がりだした。それもかなりの急坂に繋がる所だ。わざわざこんな場所を選ばなくてもいいのにと思えるが、そこを上がって行く。上がる所はまだ良いが、急坂を下る時には、座席からつんのめって落ちそうだ。座席の真ん中に居ないと重心が傾いて危険なので、それに注意していたら、今度は身体が斜めになりそうだ。急峻な下り坂の道なき道を見ると、前を行く象の「黄色い落し物」がある。落ちてあんな所に突っ込んだら飛んでもないことになる。それやこれやで神経を使う。こんなに大変とは思わなかった。やがて、また川の中に戻り、水平になったので、ひと安心だ。そして、出発から30分ほどして、やっと乗象体験が終わった。


 次は、乗牛の体験だ。これは、茶色と黒の水牛に引かれた馬車に4人で乗るもので、象とはうってかわって何の危険もなく、ただただ平らな所をのんびりと進んでいくものだ。途中で方向を曲げて道路の看板に向かって進むから何かと思ったら、その下に設えてある水飲み場が目的で、ガボガボと音を立てて豪快に水を飲んでいた。変わったことといえばそれくらいで、平穏な20分間だった。

 バイキングの昼食後、ラフティングの時間となる。横2m、縦6mほどの竹で作られた筏を、前後の2人の船頭が竹の棒を操って進んでいくものだ。川の水は泥だから、濁っていて川底が見えないので、操舟はかなり熟練してないと危ないと思うのだが、その中をライフジャケットも付けないで、流れに任せて下っていく。流れは緩やかで水深も深くないから良いようなものの、そうでなければあまり乗りたくない代物だ。



 しかし、出発してしまえば、そんなのを忘れる。川の両脇の緑、中洲、川辺りの住宅、象の訓練所など、見所が次々に出てくる。びっくりしたのは川辺りの住宅で、高床式になっているコンクリート製の建物なのだけど、それを支える数メートルの長さの柱が、誠に細いのである。あんなに細くて大丈夫かと心配になるほどだ。たまには洪水になるだろうし、そうなったら真っ先に流されそうだ。

 後ろから、大声で歌ったり笑ったりする賑やかな筏が続いてきた。筏上のカラオケ大会に興じているようだ。マレー語だから、マレーシア人の団体だろう。面白い連中だ。ある時、歌が聞こえなくなったと思うと、今度は川岸の物売りの所で冷やかしている嬌声が聞こえてきた。可笑しいったら、ありゃしない。

 近くの「I love flower」というお花ガーデンに立ち寄った。1年前にできたばかりということで、まだ地元の人しかいない。それでもこの日は、地元の大学の卒業の日ということで、その卒業生が式のマントを羽織ったまま記念写真に興じている。子供を抱えているから、家族を持ちながら頑張って卒業証書を手にしたのだろう。おめでとうと言いたい。



 お花といえば、薄青のラベンダー風の花畑が正面に広がる。でもこんな熱帯でラベンダーはあり得ないし、そもそもこちらの花の方が背が高い。その右手には、赤とピンクと白の賑やかな花が一面に広がっている。それだけだ。でも、こちらの宣伝ポスターでは、綺麗なモデルさんが、こうしたお花畑を背景に、色々なポーズを撮っている。なるほど、、、背景全面がお花ずくしというのが、魅力的なのかもしれない。


9.ワン・マーケット

 チェンマイに、倉庫を近代的に改造したような、小洒落たワン・マーケット(One Market)がある。横浜の赤レンガ倉庫を思い出してしまった。あれのコンセプトを借用したのかもしれない。中は、大小の区画に別れていて、それぞれに趣味の良い店が入っている。驚いたのはこのマーケットの建物の外側にも、ナイトマーケットのような露店が立ち並んでいて、それもかなり質の良い商品を売っていたことだ。タイの北部といえばただの農村地帯を想像していたが、実はこんな素敵な近代的マーケットがあるとは考えもしなかった。



 ガイドは、「このチェンマイの近郊の田舎の出だが、チェンマイには伝統的なチャイナタウンもあるし、こうした洒落たマーケットもできたし、バンコクのような交通渋滞や大気汚染や生活費の高騰も一切ないしと良いことづくめで、ここでの生活に本当に満足している」とのことだった。なるほどと納得した。

 ちなみに、「大卒の初任給は、月12,000バーツ(約50,000円)で、バンコクの月18,000バーツ(約75,000円)に比べれば安い。でも、その分、生活費も安くつくので、ガイドでも自分はマンションも車も持てたし、ここにして良かったと思う」と話していた。では、「あとは旦那さんだけだね」と私が言うと、下を向いて赤くなっていた。


10.レモンツリー・レストラン

 夕食に、レモンツリー・レストラン(Lemon Tree restaurant)に行った。これは、ガイドの旅行会社が勧めてくれたものだが、実際に行ってみると、街中の小さな食堂だ。これが本当にそうなのかと疑問に思ったが、ここだと言うので入ってみた。そして、グリーン・カレー、八宝菜、トムヤムクン・スープ(Tom Yam Kung、エビが入った酸っぱくて辛いスープ)を頼んだ。


 トムヤムクンを一口啜ったところで、その実力がわかった。とっても美味しい。下手なレストランなら、ただただ辛いだけだが、これは辛くて、しかも味がある。辛さが抜けた後に、何ともいえない芳醇な味の余韻が残るのである。鶏肉のグリーン・カレーも、実に美味しい。八宝菜も然り。こんなに美味いタイ料理を食べたことがない。大当たりだ。


11.ナイト・マーケット

 マレーシアのパサ・マラーム(Pasar Malam)(夜市)と同じである。通りにたくさんの露店が出て、様々な商品を並べている。スリに注意しながら、見物する。食品、衣料品、生活用品、玩具、食べ物など、何でも揃っている。


12.天然温泉

 チェンマイの北へ車で約1時間近くの所に、天然温泉がある。本当に温泉が豪快に噴出していて驚く。足湯もある。ここは日本でいうと道の駅のようになっていて、休憩とトイレと買い物をする所だ。隣にアンコールワット風の寺院があると思ったら、コロナ前に企画されたものの、資金不足で建物は未完成のまま放置されていて、おそらく完成しないだろうとのこと。何百年も経ったら、本物のアンコールワットになりそうだ。(大笑い)



13.ホワイト・テンプル

 チェンライ出身の画家、チャルーンチャイ・コーシピパットがイギリスで成功を収め、多額の財産を得た。そして、故郷に広大な敷地を購入し、しかも真っ白な寺院群(ワット・ローンクン(Wat Rong Khun、通称は、White Temple)を建設したのである。手前に長鰭の錦鯉が泳ぐ池を配置し、真っ白で壮大な寺院があちらこちらに立ち並ぶ。空の青、芝生の緑、池に写った青い空と白亜の寺院が実に美しい。最初に出迎えるのが本院で、まずは地獄の描写から入る。そして空にかかった橋を渡り、天国のような本殿に行く。いずれも白ずくめだ。




 本殿内部の写真撮影は禁止されているので撮れなかったが、手前に蝋人形の僧(モンク)があり、その上に金ピカのタイ風仏像があって、それらを見下ろすように白い優しげな仏像が配置されている。白い仏様は、見れば見るほどに素敵な顔だ。日本の中宮寺の弥勒菩薩のお顔に似ている。



 何というものを作ったのだろう。この世の天国を現している。ちなみにオーナーは、リタイアしてバイクを乗り回している、、、と思ったら、サングラスをして、眼の前に現れた。70歳余で、私とさほど変わらない。若造りの素敵なおじさんだった。


14.スカイウォーク

 チェンライから更に北へ1時間の道のりで、スカイウォークに着く。ワット・プラタート・パーガオ(Wat Phrathat Pha Ngao)という寺院で、わずか1年前にできたばかりだそうな。寺院なのに、はて、「スカイウォーク=空をの道」って何だろうと思う。入り口の近くで、トヨタ車だがトクトク風に改造されている向かい合わせ8人乗りの車に乗った。それがシャトルバスとして動いて、上まで連れて行ってくれる。そこに着くと、「履物の上にカバー」をせよと言われて付ける。そして、透明なガラスの上を歩くのである。下を見ると怖くなる。水平図にすると「コの字型」になっていて、角に1本ずつ、桜が満開のような造花がある。




 その辺りまで恐る恐る歩いていくと、わぁ凄い、、、目の前が息をのむような風景だ。緑豊かな森林の中を左右に切り裂くように、大河メコン川が左手から右へとゆったりと流れている。対岸は別の国ラオスだ、、、なるほど、これがスカイ・ウォークか、、、それにしても、なぜこれが寺院にあるのか不思議と思うところだ。ポスターによると、オレンジ色の僧衣をまとったモンクつまり僧たちが、ニコニコしながら渡り初めをしている写真があった。その時から、各自があの「履物の上のカバー」をしているから、可笑しい。話によると、観光名所を作ろうと、お寺が寄付を募って作ったそうだ。凄いな、、、タイではお寺がGNPを引き上げる原動力になっているとは、、、



 ところで、日本でいえば、願掛けの絵馬のような「リボン」が括り付けてあった。紹介すると、 「財源廣進家宅康寧」、「成名就事業順達」、「寶増長諸願皆成」、「事如意吉祥圓満」、「家庭金玉良縁」など、どの国も変わらない。


15.黄金の三角地帯

 メコン川が合流して大きくなって流れる「Y」の字を描いたような地形で、その字の左岸がタイ、右岸がラオス、上のVの字のところがミャンマーという3ヶ国に挟まれた地域に案内された。黄金の三角地帯(GoldenTriangle)というらしい。

 古くは、麻薬の密輸でその名が知られたそうだが、今はカジノが、メコン川を挟んでラオスとミャンマー側にある。まるで宮殿のように聳え立つのがラオス側のキング・ロマン・カジノで、ミャンマー側は、確かウィン&ウィンと言っていたと記憶している。それに比べてタイ側はというと、高さ16mの大きな金ピカの仏様の坐像が、あたりを睥睨している。まあ、平和でよい。ちなみにラオス側は、新型コロナ前はその宮殿のような建物だけだったのに、今ではその周辺に雨後の筍のように高層マンションが乱立している。この3年間、ここに来ていなかったガイドは、「びっくり仰天だ」と言っていた。




 せっかくだから、国境の街ここチェンセーンからメコン川を観光船で一周することになった。救命胴衣を着せられ、結構な速さで遡る。メコン川そのものは泥川でつまらない。周りの風景も、カジノ以外には目を引くものはない。ミャンマーのカジノ辺りで方向転換して川を下り、ラオスのカジノ付近まで行って戻ってきた。船頭に「ラオスに一時、入国してみるか?別料金だが」と聞かれたが、人さらいにでも遭ったら困るので、危うきに近寄らず、「No Thank you!」と言って断った。



 船から降りて、タイ側で一番目についた金ピカの仏様(プラ・プッタナワラーントゥー)まで歩いて行った。仏様は、よく見ると船を模して作られたものの上に鎮座されている。作者は仏様の向く方向にかなり苦労したのだろう。メコン川に向いて座っておられるのではなく、川と平行に左半分を川、右半分をタイ側に向けている。メコン川に向いたらまるで、通航する船を監視している税関のようだし、タイ側におしりを向けるのは不都合だ、、、なるほど、この方向が一番だと思った。日本風に深々とお辞儀をして、徒歩で帰ってきた。


16.ミャンマーとの国境の街

 メーサイ国境検問所に行った。ちなみに、ここはタイの最北端の街だそうだ。午後4時頃なので、ミャンマーに帰る車とバイクでごった返している。その脇には色んな店が多くあって、冷やかしに入ってみると、安い。例えば、「タナカ」というのはミャンマーの日焼け止めだが、首長族の村では1本100バーツ(約410円)で買ったのに、それがここではわずか20バーツ(約82円)だと憤っていた人がいた。



 まあ、こういう国は、そんなものだ。首長族に寄付をしたと思えば良いではないか。その他、ゴールドを売る店が目立っていた。純金の割合は、99.99らしい。私には関係ないけれど、、、。


17.ムーン・マイ・レストラン

 一言で言うと、凝りに凝った装飾のレストラン(Moon Mai restaurant)だ。庭のあちこちに、ディズニーに出てきそうな子供や24人の小人、中国人の子供、西洋人の子たちの像が置いてあって、ジャングルの中のような雰囲気を醸し出している変わったレストランである。トリップ・アドバイザーのランキングで第1位になったことがあるらしい。




 料理はというと、とっても美味しい。チキンとカシューナッツのトマトソース味、野菜炒め、トムヤムナムコン(ココナッツミルクを使っているから白い色のトムヤムクン)の三種類だが、いやもう素晴らしい味だった。とりわけトムヤムナムコンは、まろやかなトムヤムクンスープで、とても食べやすい。ここは、わざわざ紹介してもらっただけのことはあった。同行の皆さんも、口々に味を褒めあっていた、


18.イルミネーション輝く時計塔

 チェンライ市内で、ムーン・マイ・レストランからホテルに戻る途中、昼間見たなんの変哲もない時計塔が、イルミネーションに輝いているのに出会った。しかも音楽付きと、大変身で、ビックリすることばかりだ。



19.ファイ・プラ・カン寺院

 丘の上にパゴダと白い本殿、それに巨大な仏様の坐像が見える。近づくと、目の前に白い壁に青い縁どりの巨大な病院がある。これは生活困窮者のために寄付で建てられたもので、そして背景にあるパゴダも本殿も仏様の坐像もこれら全てが、当地の僧侶の発願で華僑とマレーシア中国人の寄付によって作られたという。驚くほどの費用がかかったはずだ。




 このワット・ファイ・プラ・カン (Watt Huai Pla Kang)については、タイ観光局の説明がわかりやすい。それによれば、「チェンライ市内から約7km離れた小高い丘の上にあるこの寺院は、2001年に修行者のための場として建立。2005年にポップショークという名の僧侶により修行者のための施設や仏塔の建設が始まり、2009年に正式な寺院として認められ・・た。」



 本堂と同じ純白の外観が目を引く高さ69mもの巨大な観音像の内部はエレベーターで上ることができ、23階の窓の外にはチェンライの美しい街並みが広がります。ランナーと中国のスタイルが融合した9階建ての仏塔の内部も見学可能です」とのこと。


20.カシューナッツ富豪

 チェンマイまで車で4時間ほどかかって戻ってきた。途中、ローカルのレストランで昼食をとる。魚の丸ごとの煮物、イカリングの揚物、八宝菜ら、キャベツと春雨のスープである。これも、美味しかった、今回の旅は、見る物だけでなく食べ物にも恵まれた。

 近くにカシューナッツの畑と加工場があるようで、色々な風味のカシューナッツを売っていた。ガイドによると、このオーナーは、昔は夫婦2人と使用人3人で細々とやっていたが、中国語を学んで中国に売りに行き、一気に商売を拡大して、この大農場と数百人が働く工場を所有するに至ったそうだ。


21.中国マーケット

 チェンマイに着き、夕食まで時間があったので、チャイナ・タウンの中心にある中国式マーケットに立ち寄った。すると、ドリアン製品がある。ドリアンをそのまま凍らせたフリーズド・ドライと、ドリアンのペーストを棒状にしたものだ。ただ、前者は水分が全部飛んでスカスカだから、あまり好きではない。昔から後者が好きなので、喜んで買い求めた。それからと、、、お茶屋さんがあり、「高山茶」がないかと探したら、すぐに見つかった。これは、台湾の高山でとれる特殊な烏龍茶の一種で、香りが良い上に味がしっかりしているから好きだ。これも買った。

 でも、ほどほどにしておかないとキリがないので、早々に退出しようとしているうちに、ある不思議な店を見つけた。コーチやルイヴィトンなどのブランド品、高級な家に高級車、、紙幣、、、これらが全て、紙で精巧に作られている。ガイドに聞くと、「死んだ時のお葬式に死者と一緒に燃やすのさ」と、事もなげに言う。なるほど、生前には叶えなかった夢を、死んだ時に叶えさせてあげるのか、、、それにしても、何かおかしくないだろうか?


22.中国式しゃぶしゃぶ

 この日の夕食は、英語で「steam boat」だという。「中国式しゃぶしゃぶ」のことだ。大きな野菜の皿に、キャベツ、ニンジンなどが入って運ばれてきて、それに日本で言えばわんこそばのような容器に、お揚げさん、水餃子、ハム、春雨、黄色いソバ、牛肉や豚肉の薄切り、卵などが入れられ、それらがうず高く積まれる。大きな鍋は、何とまあ、昆布出汁だ。

 日本と違うのは、ソースがポン酢やゴマだれではなくて、チリソースだけということだ。でもそのチリソースは、よく考えられていて、しゃぶしゃぶにピッタリと合うのである。お店の人に、「このチリソースは、しゃぶしゃぶにピッタリな味だね」と言うと、「はい。しゃぶしゃぶ用に開発されたチリソースで、すぐそばの市場に売ってますよ」と正直に話してくれた。


23.旅を振り返って

 これで、私のタイ北部の旅は終わった。美味しいタイ料理に恵まれたし、象に乗ったり、首長族、ホワイトテンプルを見たり、黄金の三角地帯、スカイウォークに行ったりと、本当に実り多い日々だった。

 それにしても思うのだけど、タイ北部に対する私の先入観は、「所々に古いお寺があって、ひたすら農村地帯が続いている」というものだった。実際に行ってみると、それは全く間違っていたことに気付いた。あちこちに、人々の溢れるようなエネルギーが渦巻いていたからである。中でも、お坊さん(モンク)までその先頭を走っているのはタイらしい。

 例えば、プラタート・パーガオ寺院は、お坊さん自らが寄付を募って建ててしまった観光名所である。ファイ・プラ・カン寺院も、当地と隣国マレーシアの華僑から寄付をあおいでお寺の3つの建物と貧困者用の大病院まで作ったものである。それどころか、坊さんでもない一画家が、イギリスで稼いだお金を使って独力で完成させたものが、ホワイトテンプルだ。いやもう、平安時代の弘法大師のような人たちだ。


24 .八方塞がりの日本の将来

 これらの努力は、もの凄いと思う反面、日本には、こんな底知れないエネルギーを持っている人々はもういないなぁと、寂しい気がする。日本は1990年のバブル崩壊後、賃金も物価も伸びずに経済成長もないという「失われた30年」を経験した。それどころか、やれ「大人の引きこもり」、「子どものいじめ」、「行きずりの無差別殺人」、「企業は最高益なのに賃金は伸びない」などと、マイナスばかりが目に付く。

 私が大学を出た半世紀前、日本のGDPは、アメリカに次ぐ世界第2位になったと喜んでいた。しかし、いつの間にか中国に抜かれた。それは仕方がないとしても、失われた30年のせいで、うかうかしているとドイツにも抜かれて世界第4位になりそうだ。若い人は外国にも出たがらないし、このままでは日本の地盤沈下は止まらず、早晩、「かつての経済大国で、今や落ち目の老大国」に成り下がりそうだ。

 かつては、大蔵省、通産省といった「官僚」が気概を持って発展途上国経済から先進国経済へと脱皮を図る上で大きな役割を果たした。ところが、日本には今やそのような存在はいない。「官僚」は、叩かれ過ぎて萎縮して、とてもリーダーシップをとるどころではない。政界も、政治屋はいるが、肝心の政策論を闘わせる人材がいない。故与謝野馨をもって最後だったかもしれない。財界も、かつての松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、井深大、土光敏夫などに比肩する気骨のある経営者がいない。まさに八方塞がりである。困ったものだ。





(令和5年12月15日著)
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