This is my essay.



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目 次
          
 
         
 1    クロアチア・スロベニアとは  
 2    ブレッド湖(スロベニア北部)  
 3    ポストイナ鍾乳洞(スロベニア中部)  
 4    スプリット(クロアチア南部)  
 5    ドゥブロヴニク(クロアチア最南端)
 6    プリトヴィッエ湖群公園(クロアチア中部)  
 7    首都ザグレブ市内(クロアチア北部)  
 8    旅行後記
 9    参考情報


 クロアチア・スロベニアへの旅( 写 真 )は、こちらから。


1.クロアチア・スロベニアとは

(1)クロアチアとスロベニアについては、かつてユーゴスラビア連邦を構成しており、その後、連邦からの独立をめぐり、ユーゴスラビア戦争に巻き込まれたという程度の知識しか持っていなかった。しかし、たまたま日本からのツアーがあったので、行ってみることにした。ちなみに、今回の旅行により、私の訪問国は39ヶ国となる。

 イタリア半島の東端が面するアドリア海を挟んで、旧ユーゴスラビア連邦を構成していた2国が、北のスロベニアと南のクロアチアである。スロベニアは日本の四国に似た形と面積をしたほぼ内陸の国だが、クロアチアは国の西端がアドリア海に面し、右側が刃のごとき形をしている「鎌」のような形状である。なお、これら2国のさらに東にはボスニア・ヘルツェゴビナがあり、その東にはセルビア、南にはコソボが位置する。いずれもバルカン半島の国々である。

 元々この地域は、多様な宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)、多数の言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、多様な民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム系)や、多くの小国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)が存在する複雑な地域であり、第二次世界大戦の英雄チトーが存命の頃は、これらがユーゴスラビア連邦として何とかまとまっていた。

 しかし、そのチトー大統領が1980年に亡くなると、各国が対立し始め、ベルリンの壁が崩壊して半年後の1990年にクロアチアが独立の動きを見せ、翌1991年にはスロベニアとともに完全独立を宣言した。この動きを阻止しようと、セルビア人勢力が武力を行使し、内戦に突入した。内陸国のセルビアはアドリア海への出口を求め、最南端の中世の城壁都市ドゥブロヴニクやクロアチア中部のプリトヴィツェ湖群国立公園などの世界遺産まで一時占領されたが、1995年にクロアチアがそれを奪還し、1998年までこの戦争は続いた。

 これによる死者および行方不明者数は、クロアチア側で15,000人、セルビア側で8,000人、難民はクロアチア側で20万人、セルビア側で45万人とされている。(参考にしたサイト

(2)羽田空港からルフトハンザ航空機(LH717)で出発した。飛行の軌跡を追っていると、日本から北に向かい、カムチャッカ半島の東側をかすめてベーリング海に入った。その後、アラスカの西端の上空を通り、北極海を越え、北極点辺りでグリーンランドの東端からスカンジナビア半島上空へ入り、そのままドイツのフランクフルト空港に着陸した。

 これで、14時間近くの長旅である。現在行われているウクライナ戦争の影響でロシア上空を飛べないものだから、およそ2時間のロスになっていると言われる。

 フランクフルト空港から、まるで目刺しのような長くて細長い飛行機に乗って、オーストリア南部のグラーツに到着した。ラマダ・グラーツ・ホテルに泊まる。


2.ブレッド湖(Lake Bled。スロベニア北部)

スロベニアの北西部、アルプス山脈の麓にあるブレッド湖は、「アルプスの瞳」と称される本当に美しい景勝地である。湖は深いターコイズ・ブルーの水をたたえ、それを見下ろすようにブレッド城があり、湖の中の小島ブレッド島には、絵本の中から出て来たような聖被昇天教会がある。





 湖の背景には雪を乗せたユリアンアルプス(ジュリアス・シーザー=ユリウス・カエサルの名前が由来とされる)、別名サニー・アルプスの山々が見える。

 11世紀にアルブイン1世がここブレッドの街を作り、13世紀にブラッド城が作られ、その後ハプスブルク家の所有になって増改築され、16世紀から現在の姿になったという。

 地元のガイドによれば、ほんの4日前まで、この湖で泳げるほど暖かかったが、突然に気温が下がって山々には雪が降り、ここブラッドは最高気温が20度、最低気温が8度になったという。

 この観光の目玉は、湖の中央に浮かぶ小さなブレッド島と、そこに行くのに、伝統的なボート「プレンツェン」を利用することだ。これは、20人乗りの手漕ぎボートである。これを聞いた時、乗船した乗客の皆が櫂を持ってムカデのように漕ぐのかと思ったが、そうではなかった。

 船尾にいる船頭さんが一人、器用に両手で漕ぐのである。さぞかし、重かろうにと思うのだが、意外と平気で漕いでいる。しかも、船着場の直前で上手にUターンして船尾から埠頭に付ける。これは、もう拍手ものだ。その代わり、船のバランスを崩さないように、立たない、反りくり返らない、乗船下船の時は相対する人から左右一人ずつ順に動くことが徹底されている。





 ブレッド島に10分ほどで着くと、その船着場から100段の階段があり、そこをゆっくり登っていった先が、美しい教会である。中に入ってみると、小さいながらも祭壇はもちろん、小型のパイプオルガンまである。こういうおとぎの国のような教会で礼拝をするのは、さぞかし幸せだろうと思う。



 今回、残念ながら行けなかったブレッド城は、遠目から見ると、湖を望む崖の上に位置していて、まるで中世のお城が現代に甦ったような雰囲気である。城内には博物館があり、地域の歴史や文化を学ぶことができるそうだ。

 ブレッド湖には、これを取り囲む一周6kmの散策路が整備されており、ハイキングやジョギングをする人々がいる。湖面に四季折々の美しい景色が映し出され、実に綺麗だという。


3.ポストイナ鍾乳洞(Postojna Cave。スロベニア中部)

 ポストイナにある鍾乳洞は、ヨーロッパ最大の規模の全長27kmもの長さを誇る。同様な鍾乳洞は、スロベニア国内にあと4箇所あるというが、洞内にトロッコ電車があるのは、ここだけだという。







 まあ、日本の秋吉台のようなものだろうと高を括っていたら、とんでもない。まずはトロッコ電車に乗って、10数分、洞内の狭いトンネルを爆走する。これが、意外と怖い。何しろ、頭が天井に近いし、両脇も伊豆急のトンネル並みに車両に迫っている。背丈が185cmを超えていたら、明らかに危ない。日本なら、絶対に許可されない路線だ。

 地底の終点に着いてみると、そこから1.5kmも歩かされた。それも、坂があり、時には水が流れる中をである。もちろん、あちこちの天井からストローのようにぶら下がる鍾乳石や石筍、それらが繋がった石柱などを見ながらだ。確かに景色は凄くて迫力があるけれども、どこか大味なのである。例えばリムストーンに囲まれた棚田のような劇的な風景もない。 





 それやこれやで、「ああ、早く出たい」と思いながら、やっと帰りのトロッコ電車に乗り、再び地底を爆走後、ようやく出口に到達した。その辺りに水槽があり、中には体長15cmほどのピンク色をして目が退化した「ホライモリ」なる動物がいた。これが、この鍾乳洞のシンボルらしい。

 この鍾乳洞は、私が今年の3月にポーランドで岩塩鉱山を見学した時と同じで、「もうこれでもか」という感じで徹底的に歩かされてしまった。それと同じで、ヨーロッパの地底探検は、あまりお勧めしない。ちなみに洞窟内は、一年を通して気温は10度程度、湿度は78%と言っていた。入った時、とりわけトロッコ電車で疾走した時は、肌寒く感じたが、それ以外は歩いたためか、かえって暑くなった。


4.スプリット(Split。クロアチア南部)

岩礁の女神


 ポストイナからはるか南のスプリットに行く途中、約60kmのところにあるオパティアに泊まった。ここは、美しい港町である。皆でホテルを抜け出して夜の散歩をしたところ、海岸で「岩礁の女神」と称される「少女とカモメ」の彫刻(ズボンコ・カル作)に出会った。思わず見とれてふと気が付いたら、あたりを照らす月の光も非常に美しかった。

 翌朝、スプリットに向けて更に南下し、とある港町で食事をした。メニューは、まずは魚のスープだったが、コクがなくて今ひとつ。メインは、イカの姿煮と、ほうれん草とジャガイモをペースト状にまとめたものだった。イカはなかなか美味しく、もし北海道だったらここにご飯を入れてイカ飯にするところだ。ほうれん草のペーストは、何の味も香りもしなかった。

 アドリア海沿岸の港町のうち最大のスプリットの起源は、ローマ皇帝ディオクレティアヌス(紀元300年前後)の宮殿である。それがそのまま旧市街地となっている。ローマ帝国が滅亡し、異民族が大挙して侵入してきた紀元7世紀に、それから避難するような形でスラブ人がこの頑丈な城壁の内側に定住しはじめたのが街の起こりだとされる。その城壁は、東西180m、南北215m、高さ20m、厚さ2mという巨大なもので、東西南北に開いた門がある。

 Ai Chatによると、「スプリットはクロアチア南部に位置する美しい海沿いの都市で、豊かな歴史と文化、美しいビーチが魅力です。ディオクレティアヌス宮殿は、世界遺産にも登録された古代ローマの宮殿で、スプリットの中心部に位置しており、宮殿内にはカフェやショップが立ち並び、歴史的な雰囲気を楽しむことができる」とされる。







 ガイドによれば、ディオクレティアヌス帝は、ここスピリットの出身で、引退後の隠居所として、この宮殿を建設したそうだ。ところが、帝の死後、その亡骸を葬った祭殿が壊され、その場所にスプリット大聖堂が建てられたとのこと。

 宮殿に入った。ここは、そもそも海中に建てられたという。だから1階部分は海に浸かっていたが、今はそれが陸地になっている。ちなみに、かつてのローマ時代の建築物は、1階と2階を同じ構造にした、その方が建築物としては安定するからだ。

 そして、この宮殿が廃墟になった後に住み着いたクロアチア人が、2階の床に穴を開けて、そこからゴミを投棄したものだから、かつての1階はゴミで埋まってしまった。そして時が経ち、2階部分は既に廃墟となって失われたが、その1階部分のゴミを取り除くと、ローマ時代に建てられた建築物そのものが、現れたというわけだそうだ。面白い話である。







 ディオクレティアヌス宮殿は、ほぼ真四角の形をしており、それぞれの門には、金の門、銀の門、銅の門、鉄の門という名が付けられている。中に入ると、細々とした路地があり、そこでお土産物屋が立ち並んでいる。ローマがエジプトに攻め入った時の戦利品なのだろうか、小さなスフィンクスの本物の像があったのには、驚いた。銀の門の外には、青空市場があり、その近くの喫茶店に入って休んだ。


5.ドゥブロヴニク(Dubrovnik。クロアチア最南端)

 スプリットからドゥブロヴニクに行く途中、スクラディンの港町に立ち寄った後、パリシャス島の4年前に出来た橋を通った。でも、中国企業が作った橋だというからやや心配したが、無事に通過した。







 目的地ドゥブロヴニクの直前に、ツジマン橋というクロアチア初代の大統領の名を冠した橋がある。そのたもとに展望台があり、新市街地と、眼下の美しいブルーのアドリア海に、豪華客船が停泊している。

 ドゥブロヴニクに着いた。この街は、アドリア海の真珠と称えられる美しい石造りの街並みで世界遺産に登録されている。

 中世の時代、ドゥブロヴニクはセルビア人とクロアチア人の街に分かれていたが、それが統一されてからは、ベネチアと並ぶ商業都市として大いに発展した。西側の世界の最も東に位置する都市国家であり、ビザンチン帝国の言語にも通じた住民により、東の世界との交易で稼いでいた。



 それが、2度の世界大戦の後、ユーゴスラビア連邦のクロアチア共和国の一員となっていたが、1991年になるとセルビア人が主導するユーゴスラビア連邦軍による攻撃を受けて、600発の弾丸や空爆により、旧市街地は壊滅的打撃を被った(上記の地図)。ところが、紛争終結後に精力的に修復が行われて、今やその痕跡はほとんどなくなった。それにしても、なんたる蛮行だろう。後に述べるプリトヴィッエ湖群国立公園でも、あの美しい景勝地の湖で、占領したセルビア人が爆薬を爆発させて魚を獲ったというから、もう何をか言わんやだ。







 ドゥブロヴニクのシンボルは、これを取り囲む城壁である。この上を歩くことで、市内のパノラマビューを楽しむことができる。眼下に、まるで中世の世界そのものが広がる。

 その城壁の中には、聖ブレイズ教会がある。薄いピンクの石で作られた美しい教会で、ドゥブロヴニクの守護聖人である聖ブレイズを祀っている。

 ピレ門は、旧市街つまり城壁内への主要な入り口で、美しいアーチが特徴である。その入り口をくぐると、もう中世の城郭都市そのものといった荘厳な雰囲気が漂う。人がやっと、すり抜けられる狭い道を通ると、そこには旧市街のメインストリートであるストラドゥン通りにたどり着く。そこには、洒落たカフェやショップが建ち並び、おおいに賑わっている。







 また、ロープウェイがあって、スルジ山に登った。そこからの景色は正に絶景で、ドゥブロヴニクの全景やアドリア海が一望できる。

 ドゥブロヴニクの港から、観光船が出ている。最初は、近くに停泊していた中型の船かと思ったが、それは早とちりで、まるでモーターボートに毛の生えたような小型船だった。ズンズンというエンジン音を響かせ、波を立てて走り、爽快なのだが、この日はいかんせん波が高い。





 前方に1mほど急に持ち上がったかと思うと、反対に同じくらい海の中に突っ込む。ピッチングだ。そうかと思うと、ローリングで、これも1mほど上がったり下がったりする。その度に海水は被るし、それどころか目が回る。船酔いとまではいかなかったものの、帰りの港に着いた時は、ほっとした。

 途中で、沖合いに豪華客船が停泊している。ガイドに聞くと、水深が足りないので、港には入ることが出来ないそうで、ここから小型船で乗客をドゥブロヴニクまで運ぶという。

 また、7つ星の超豪華ホテルが二つもあり、いずれもアラブの富豪が所有しているそうだ。その周りにも、5つ星ホテルがあり、いずれもプライベート・ビーチを持っている。







 Scala というドゥブロヴニク市内のレストランで、タコのマリネと、シーフードピザを食べた。とても、美味しかった。

 翌朝は、いよいよ城壁巡りだ。全長約2km、最高の高さ25mという。レヴェリンの要塞のあるプロチェ門の第一の入口から入り、反時計回りでぐるっと一周と言いたいところだが、、、途中で飽きてきて、ほぼ4分の3を過ぎた第三の出口の海洋博物館のところで地上へと下った。まあ、中世で城塞都市を守るクロアチア人兵士になった気分である。

 このコースの最初は、レヴェリンの砦で、そこを上がっていったら、次からは下ったり上がったりだ。道がかなり細くなる所もあれば、広くなって生のオレンジを絞ったジュースを出す店もある。





 辺りは正に絶景で、眼下には赤い屋根瓦の家々が密集して、時折り聖母被昇天大聖堂の尖塔が突き出していてアクセントになっている。それら旧市内の向こうは濃紺の海が広がり、更にその左手には、ロクルム島がある。

 ガイドによると、ロクルム島を巡る言い伝えがある。何でも、十字軍の東方遠征の時代の1192年に、イギリスの獅子王(リチャードI世)が帰国途中にこの辺りの海で難破し、この島に流れ着いて救助され、助かった。そのお礼にとこの島に教会を設立しようとしたが、既に教会があったので、ドゥブロヴニクの教会に寄付をしたという話が残っている。


6.プリトヴィッエ湖群国立公園(Plitvice Lakes National Park。クロアチア中部)

 ドゥブロヴニクから北へとプリトヴィッエに向かってバスが出発した。7時間の長旅だそうだ。途中、高速道路の左右に広がっているのは、カルスト台地で、石灰岩の間に低木が生えているという荒涼たる風景だ。これでは牧草地にすらならない。貧しいわけだ。

 ところが、プリトヴィッエに近づくにつれ、その荒涼たる風景から、次第に牧草地が広がるようになる。一説によると、石灰岩の間に、苔などが入り込み、穴を塞いで水が地下に漏れないようにして、土地ができ、森林になったという。



 プリトヴィッエ湖群国立公園に到着した。この公園は、首都ザグレブから南へ110kmの所にあり、大小16の湖と92の滝がある。クロアチア中部に位置する非常に美しい自然から成る大規模な国立公園で、蝶は80種類、鳥は150種類、野生動物は、熊、山猫、狼、狐、鹿などがいる。ユネスコの世界遺産に登録されている。

 プリトヴィッエ湖群は、16の湖が層状に連なっており、それぞれの湖は、青、緑、エメラルド色など異なる色合いを持ち、この湖の色は季節や天候によって変化するそうだ。







 最高部の「大滝(Veliki Slap)」は高さ78mで、そこから流れ落ちる滝は、まさに圧巻の景色である。その滝壺にある小さな湖は、コバルト・ブルーで本当に綺麗だ。目を左手に転じると、ここから上へと、このような小さな湖がまるで棚田のように積み重なっている。

 公園内には多様なハイキングコースが整備されており、湖や滝を巡るルートが用意されている。その一つの、大滝を同じ高さで目にする崖の頂上から下って、滝壺の高さまで一気に降り、二つの小さな湖の境界に設けられた桟道を渡る。







 そこから、棚田状の小さな湖を一つ一つ登っていくことになる。耳に聞こえてくるせせらぎの音が心地よく、桟道をどんどん進む。湖の色が深いコバルト・ブルーから淡い水色まで変わる。水の中を覗き込むと、種類は分からないが、日本で言えば岩魚のような魚がいる。





 どんどん登っていくと、次第に湖がだんだんと大きくなっていき、やがて、「コリャ湖(Kozjak Lake)」という大きな湖にたどり着く。それは、P3と言われる所で、そこから、ボートに乗る。20人乗りくらいの簡素なボートで、まるで鏡のような湖面を静々と進んでいく。この日は小雨模様なので、特にこれといった風景はなく、湖面を横断して対岸のP2に着き、そこで若干の乗客を下ろして、ほど近いP1まで行った。そこが、このプチクルーズの終点だ。

 驚いたことに、そのP1が、この自然ツアーの出発点だったホテルにまた戻ってきたことだった。あれだけ、層状に重なった小さな湖を歩いてきたり、ボートに乗ったりしたのは、何だったのだろうかと思うほどだ。そういうことで、わずか2時間、およそ2kmの小さな自然ツアーが終わった。


7.首都ザグレブ市内(Zagreb。クロアチア北部)

 クロアチアの首都ザグレブに着いた。ザグレブ駅前でバスを降り、目の前のトミスラブ王広場を散策する。中央にある騎馬像が、クロアチア初代国王のトミスラブという。







 それから、6番の青いトラム(路面電車)に乗って、二つ目のバン・イェラチッチ広場で降りた。ここは、ザグレブの中心にある広場で、周辺にはカフェやレストランがあり、大勢の観光客が集まってごった返している。

 そして、広場から西へ200mほど行って右側を見ると、なんとまあ、ケーブルカーの乗り場がある。それに乗ると小高い丘に向けて上がり、ほんの30秒ほどで着いた。

 そこは、旧市街西側のゴルニィ・グラード地区で、ガイドによると、こちらは元々、13世紀に自由都市として認められた商工業の町が起源で、その東隣のカプトル地区は11世紀に宗教都市として始まったそうだ。







 今でもカプトル地区の中心は、二本の尖塔を持つザグレブ大聖堂(聖母被昇天教会)で、壮大なゴシック様式のクロアチアで最も高い教会だというが、残念ながら2020年3月の大地震で崩れてしまって、この日は足場が組まれて修理中だった。ちなみにこの大聖堂の塔からはザグレブ市内を一望することができるそうだ。

 ゴルニィ・グラード地区とカピトル地区は、事実上は17世紀から、正式には19世紀に合併し、それから街は急速に発展した。ゴルニィ・グラード地区にも聖マルコ教会があり、その屋根はカラフルなモザイクからできていて、ガイドによると、向かって左手は、クロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォニア地方を現し、右手はザグレブ地方の紋章とのこと。

 近くには、石の門というものがあり、確かにアーチの形をした石造りから成っている。中世に自由都市だったグラデツ(今のゴルニィ・グラード地区)は、四方を城壁に囲まれていて、そこに幾つかの門が設けられていた。





 いずれも木製の門だったが、ガイドによると18世紀に大火があった時にこの門も焼け落ちた。しかし、門のそばにあったマリア像だけは、瓦礫の中から無事に見つかったので、またこの門に祀られ、御利益があるというので、お参りする人が絶えないそうだ。まるで、浅草寺の観音様のような話だ。


8.旅行後記

(1)今回の旅は、本当に素晴らしいものだった。自然の美、古代ローマや中世の歴史と文化、美味しい海鮮料理などが相まって、旅の良さがぎっしりと詰まった1週間だった。

 特に印象に残ったのは、次の通りである。

 ・ 青い水で満ちたブラッド湖の中に浮かぶ美しい小島と、その中の素朴な教会
 ・ 規模の大きなポストイナ鍾乳洞の鍾乳石と、爆走するトロッコ電車
 ・ 多島海であるアドリア海沿岸の美しさと中世以来の歴史
 ・ スプリットのディオクレティアヌス宮殿が残った経緯
 ・ 中世の商業都市だったドゥブロヴニクを囲む城壁
 ・ プリトヴィッエ湖群国立公園の棚田状治り重なった紺色の湖
 ・ 首都ザグレブの中世の面影を残す街並み


(2)今回の旅行エージェントである阪急交通社が、たまたまルフトハンザ航空を選んだせいで、非常に面倒なことになった。「各自で搭乗の30時間前にチェックインせよ」というのである。私はプレミアム・エコノミーを頼んでおいたのだが、それでも例外なしだ。

 日本を出発するときは、たまたま常識的な時間だったが、帰るときは、午前3時40分がその時間だ。眠い目をこすりながら、チェックインをしようとしたが、手続をずーっと進めていって、最後にボタンを押すと、どういうわけか「技術的な理由によりチェックインできません」と出る、何回やっても同じで、頭に来た。添乗員に相談したが、彼女にもわからない。

 やむを得ず朝食に出て、同じツアーのメンバーに聞くと、いずれもエコノミーで、簡単にチェックインできたという。プレミアム・エコノミーは、私だけだったらしい。なぜなんだろうと、幾ら考えても理由がわからない。

 せっかくの旅行が台無しだと腹ただしい気分でいたところ、どういうわけか、午前6時30分になって、ルフトハンザ航空からチェックインを促すメールが来て、それに従ってやると、チェックインができた。なぜできたのか、その理由がわからない。これから、ルフトハンザ航空にはなるべく乗らないことにしようと思っている。

(3)日本への帰国も、やはりオーストリア南部のグラーツからだったが、行きの時のようなフランクフルト経由ではなく、帰りに搭乗したルフトハンザ航空機(LH714)は、ミュンヘン経由だった。ところが帰りの経路は、北極回りだった行きとは違って、ドイツ → 中東 → カスピ海 → 中国で、追い風に恵まれて、12時間で羽田空港に着いた。


9.参考情報

(1)クロアチア共和国(Republic of Croatia)は、地中海のアドリア海に面しており、これを挟んだ向かい側がイタリアである。外務省の資料によると、次の通り。

 面積:5万6,594m2(九州の約1.5倍)
 人口:385.5万人(2022年)
 首都:ザグレブ
 言語:クロアチア語
 宗教:カトリック、セルビア正教等
 民族:クロアチア人(91.6%)、セルビア人(3.2%)等(2021年)
 政体:共和制
 議会:1院制(任期4年。定員151)(2001年3月上院廃止)
 元首:ゾラン・ミラノビッチ大統領(2020年2月就任。任期5年)
 首相 アンドレイ・プレンコビッチ(2016年10月就任)
 産業:観光業、製造業、不動産業等
 通貨:ユーロ(EUR)

 歴史:
     7世紀頃      スラブ人が定住
    10世紀前半  トミスラブ公がクロアチア王国建国
    1527年      ハプスブルグ家の支配下に
    1918年      セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国建国に参加
    1941年      第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの傀儡国「クロアチア独立国」樹立宣言
    1945年      ユーゴスラビア連邦人民共和国の構成共和国の一つとして発足
    1991年      ユーゴスラビアより独立宣言
    1992年      国連加盟
    2009年      NATO加盟
    2013年      EU加盟
    2023年      ユーロ貨導入、シェンゲン圏加盟

(2)スロベニア共和国(Republic of Slovenia)については、同様に外務省の資料によると、次の通り。

 面積:2万273m2(四国とほぼ同じ)
 人口:約210万人(2022年・世銀)
 首都:リュブリャナ(人口28万4千人)(2022年1月)
 言語:スロベニア語
 宗教:カトリック 57.8%、イスラム教 2.4%、セルビア正教 2.3%、プロテスタント 0.8%、その他(含:不明・無信仰)37.7%(2002年)
 歴史:
    6世紀末  スラヴ人(スロベニア人)定住開始。アヴァール王国等異民族による支配が続く。
    1282年  ハプスブルグ家の所領となる。以後1918年までハプスブルグ帝国領
    1918年  セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
    1945年  ユーゴ構成共和国の一つとして発足
    1991年  独立と主権を宣言
    1992年  国連加盟
    2004年  NATO加盟、EU加盟
    2007年  ユーロ貨導入、シェンゲン圏加盟


(3)クロアチアの歴史

 冒頭に「クロアチアは国の西端がアドリア海に面し、右側が刃のごとき形をしている『鎌』のような形状」と書いた。なぜこんな形をしているのかと、不思議だったが、ここでガイドの説明を聞いて、少し納得した。

 というのは、中世の時代、スロベニアとクロアチアの東の内陸部分は、ハプスブルク帝国の支配に入ったが、クロアチアのアドリア海の沿岸部分は、15世紀に最盛期を迎えたベネチアの傘下に入った。

 なぜなら、ベネチアは海洋国家だったが、その交易路の確保のため、アドリア海沿岸は、良港と多くの島があるために安全な航海ができたからだという。これに比べて、イタリア半島の西側には、そういう天然の良港がないため、使えなかったからだとのこと。

 そして、これからがなるほどと納得した点なのだが、クロアチアの内陸は、カルスト地形のため、農業には不向きで、貧しかった。だから、お宝を満載したベネチアの交易船が通りかかると、クロアチア人はこれを奪う海賊になったらしい。ベネチアもこれを放置出来ずに、軍隊を派遣すると、海賊は内陸部に逃走し、ほとぼりが冷めた頃に戻ってきてまた海賊行為に走るということの繰り返しだった。そこでベネチアは、クロアチア人に仕事を与えるために、船の漕ぎ手として雇った記録が残っているそうな。

(4)AIChatの旅行記

 せっかく、AIChatの会員になったので、これに両国への旅行記を書いてもらったところ、文章も流麗で、かなり使えることがわかった。しかしながら、そもそも機械が、まるで自分で観光してきたかのような旅行記を作ってよいものだろうか。こんなことだと、世の中にAIChat作成のニセ情報があふれることだろう。由々しき事態である。そのうち、「本物の人間が作成した」あるいは、「AIの作成ではありません」という注釈が必要となる世の中になるかもしれない。

### クロアチア旅行記

 クロアチア旅行は、私の人生の中で最も印象に残る経験の一つでした。この小さな国は、アドリア海に面した美しい海岸、歴史的な街並み、そして豊かな文化を持っています。旅の目的は、自然の美しさと歴史を楽しむことでしたが、その期待を大きく超える体験が待っていました。

 旅行のスタート地点は、首都ザグレブでした。この町は、活気に満ちたカフェやショップが並び、ここからクロアチアの魅力に引き込まれていきました。街を歩くと、美しいオーストリア・ハンガリー様式の建物と、歴史を感じさせる瓦屋根の町並みが広がっています。特に、聖マルコ教会のカラフルな屋根や、市立広場で行われる地元のマーケットは印象的でした。

 次に訪れたのは、ダルマチア地方のスプリトです。ここでは、ディオクレティアヌス宮殿を中心にした旧市街を探索しました。宮殿内は、かつてのローマ帝国の栄華を物語る遺跡であふれており、歴史を身近に感じることができました。特に、地下室の見事な保存状態に驚きました。そして、地元の料理を試すために、レストランに立ち寄り、新鮮なシーフードを堪能しました。

 もちろん、クロアチアの美しい海岸線も見逃せません。次に、フヴァル島に向かいました。この島は、クリスタルブルーの海と美しい自然が広がっていて、どこを見ても絵画のような風景でした。特に、ラビリンスのような小道を散策しながら、隠れたビーチに辿り着く瞬間は、まるで宝探しのようでした。海水浴や日光浴を楽しむだけでなく、夜には星空を見上げながらの散策が心に残りました。

 旅行の最後には、世界遺産にも指定されているプリトヴィツェ湖群国立公園を訪れました。数多くの湖や滝があり、季節によってその美しさが変わります。特に秋の紅葉の中をトレッキングした時の感動は忘れられません。自然の偉大さに圧倒され、平和なひとときを過ごすことができました。

 クロアチア旅行を通して、歴史、自然、文化、そして人々との出会いが私を豊かにしてくれました。この国は、独特の魅力を持っており、訪れる人々に忘れがたい思い出を残してくれます。時間が許せば、ぜひまた訪れたいと思います。


### スロベニア旅行記

 スロベニアという国は、ヨーロッパの隠れた宝石とも言える場所です。美しい自然、歴史的な街並み、そして温かい人々に囲まれながら私はこの国を訪れました。私のスロベニア旅行は、驚きと発見に満ちた素晴らしい体験でした。

 旅のスタート地点は、スロベニアの首都リュブリャナでした。この街は、古い城と新しい文化が見事に融合している魅力的な場所です。リュブリャナ城からの眺めは息をのむ美しさで、街の中心を見下ろすと、緑豊かな公園と可愛らしいカフェが点在する様子が一望できました。また、リュブリャニツァ川沿いのプロムナードは、散策するにはぴったりの場所で、多くの地元のアーティストやミュージシャンに出会うことができました。

 次に訪れたのは、スロベニアで最も有名な観光地であるブレッド湖です。この湖は、青い水に浮かぶ小さな島と、その中心にそびえる教会が特徴的で、まるで絵本の中に迷い込んだかのような感覚を味わいました。私はボートを借りて、島までの道のりを楽しみました。湖のまわりを散策し、山々に囲まれた穏やかな景色に心を奪われました。特に、朝日が湖面に反射する光景は、一生忘れられない記憶となりました。

 旅行の次の目的地は、スロベニアの自然の驚異、トリグラウ国立公園です。この公園では、壮大な山々や清流、そして美しい滝など、手つかずの自然の美しさを目の当たりにしました。トレッキングをしながら、さまざまな動植物に出会い、深い山の空気を吸い込むことで心がリフレッシュされました。特に、ソカ川のエメラルドグリーンの水は、自然の神秘を感じさせてくれるものでした。

 最後には、スロベニアの伝統的な料理を味わうために、地元のレストランに足を運びました。スロベニア料理は、豊かな自然を反映した素朴で美味しい料理が多く、特に「プレストラジャ」というパイは絶品でした。地元のワインも楽しみながら、スロベニアの文化に浸ることができました。

 スロベニアは、自然の美しさと文化の深さが融合した素晴らしい国であり、私にとって忘れがたい旅となりました。美しい景色と温かい人々、豊かな歴史が詰まったこの国を訪れることができたことを、心から良かったと思います。またいつか、スロベニアの大自然を再び訪れたいと願っています」


 まるで、見て来たかのように出鱈目を言っているのかもしれないが(笑)、雰囲気は旅行作家そのものである。





(令和6年9月21日著)
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悠々人生エッセイ





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