悠々人生エッセイ








 スペイン・ポルトガルへの旅( 写 真 )は、こちらから。


目 次          
       
 0    前書き
 1    モンセラット(スペイン)
 2    バルセロナ(スペイン)
 3    ポルト(ポルトガル)
 4    リスボン(ポルトガル)
 5    セビリア(スペイン)
 6    コルドバ(スペイン)
 7    トレド(スペイン)
 8    マドリード(スペイン)
 9    セゴビア(スペイン)
10     旅行後記  
11     レコンキスタ  



0.前書き

 以前のニュージーランドスイス、それに中欧・東欧への旅に引き続き、再びマレーシアで組まれたツアーに入れてもらい、今回はスペイン・ポルトガルへの旅に出発した。私はポルトガルは初めて訪れるので、訪問した国はこれが40ヵ国目となる。目指す50ヵ国まで、ようやく先が見えて来た。

 ちなみに私は、スペインへは、かつてマドリードとグラナダだけには行ったことがある。その時、マドリードでは、プラド博物館で東洋の大きな磁器をこれでもかというばかりに見せつけられ、絢爛豪華な宮廷の絵画と併せて、この国は16世紀から18世紀にかけて、さぞかし繁栄したのだろうなと想いを馳せた。ただ、南アメリカの財宝を「収奪」したことによる繁栄だから、長続きしなかったのだとも思う。

 グラナダは、レコンキスタ(キリスト教徒によるイスラム支配地域の再征服)の仕上げの地で、ここに最後まで踏みとどまっていたイスラム勢力を、キリスト教国家が1492年に駆逐した記念の地ということになる。その舞台となったアランブラ宮殿を見学して、イスラム芸術の粋を見た気がした。

 今回の旅は、マドリードには行くが、グラナダには行かない。その代わり、その他のスペインの歴史に触れることのできる地であるバルセロナ、セビリア、コルドバ、トレドに行くので、先のグラナダと合わせてスペインと大航海時代の知識が増えるから、とても楽しみにしている。


1.モンセラット(スペイン)

 バルセロナ空港には朝8時前に着いて、その直後バスに乗せられ、小1時間ほど走ってモンセラット(Montserrat)まで連れて行かれた。着いた当初は霧が深くて、何も見えなかった。ところが、雷を伴う大雨が降ってきたと思ったら、30分ほどでそれが綺麗に晴れ上がり、その独特な岩の山々の形が見えてきた。何というか、中国の桂林のような尖った石灰岩の山とは対照的に、こちらはモコモコとした形の変わった山塊である。これを見ていてつい思い出してしまうのがガウディの作品で、どこか似ているのである。





 モンセラット山頂まで、サン・フアン・フニクラ (Sant Joan Funicular)というケーブルカーがあり、それに乗る駅がある所までバスが運んでくれた。そこには、鉄道の駅だけでなく、モンセラット修道院がある。その歴史は古くて、1000年前からあるとのこと。

 何でも12世紀に作られた黒いマリア像が地元の羊飼いによって発見され、それが後にこの修道院の守護聖人として崇められるようになったと言われている。多くの巡礼者が訪れ、特に妊娠と安産をお祈りするという。

 入ってみると、いかにも歴史を感じさせる建物が魅力的である。ところが、1800年にナポレオンが攻めてきて、その際に徹底的に破壊されたそうだ。それを1899年に再建したのが、現在の姿だという。

 ケーブルカーに乗る山頂からの眺望は絶景だというが、残念ながら私が行ったこの日は、朝方の強い雷雨のために、運行中止となってしまった。それでも、修道院からの下界の眺めは、スイスアルプスを思い出し、実に素晴らしいものだった。


2.バルセロナ(スペイン)

(1)バルセロナの歴史


 スペインの人口は約4,700万人で、ヨーロッパの中で独英仏伊に次いで5番目に大きい。13の地方から成り、そのうちバルセロナのあるカタルーニャ地方は、800万人弱である。

 バルセロナの起源は、紀元前1世紀のローマ時代に遡り、その頃、ローマ人は「バルチノ(Barcino)」という名前でこの町を作った。だからこの地の人々の意識としては、「自分たちはローマ人の末裔」だそうだ。

 ローマ帝国崩壊後、バルセロナはいったんゲルマン系の西ゴート王国の支配下に入った。その後、8世紀にはムーア人(イスラム教徒)の侵攻を受け、一時的に支配された。しかし直ぐにキリスト教勢力がこの地を取り戻して、バルセロナはカタルーニャ公国の中心地となり、中世には商業と文化の中心地として大いに発展した。ところが、14世紀のペストや東のオスマン帝国の台頭で衰退し、人口も激減したという。

 カタルーニャは、15世紀以来、国王と女王の政略結婚やスペイン継承戦争などを経て、アラゴンに統合されていった。それでカタルーニャの人々には、戦争で負けてスペインの一地方になったという意識が残った。だから現在でも当地の人々の気持ちは「自分たちはカタルーニャ人であって、スペイン人ではない」という感覚だそうだ。だから、バスク地方のように、しばしば独立運動が起こる。まるで、イギリスのイングランドとスコットランドの関係のようだ。国レベルの民族統一というのは、組み込まれた方に、後々までしこりを残す。

(2)グエル公園

 アントニ・ガウディ(1852−1926年)が設計したこの公園(Park Guell)には、色とりどりのモザイクやユニークな建築がある。モザイクは、高価な磁器でも砕いたのか、一つ一つのピースが色鮮やかで、それが美しく組み合わさって異国風の絵柄となっている。それは西洋でも東洋でもなく、さりとて少しは具象的なものだからイスラム風でもない。まさに、ガウディ風としか言いようがない。

 公園内を少し歩いて行くと、バルセロナ市内の美しい眺望が見える展望台に着く。そこで、波のようにうねっている形のガウディらしいモザイクに被われたところに座って眼下を見て楽しむことができる。





 眼の前には一見してガウディが設計したとわかるユニークな建物がある。右には蓋の付いた中国の磁器を思い出させような尖塔がある建物もあれば、左にはクリスマスケーキのような建物もある。中には、ガウディの本や土産物などが売られていた。

 その展望台から下へ降りて行くと、パルテノン神殿のような柱で被われたところがあり、先ほどの展望台は、この柱で支えられていたのだとわかる。そこからの下り坂には「ドラゴンのタイルのモザイク」があって、これは面白い造形である。誰もがその傍らに立って写真を撮りたがるが、少しでもこのモザイクに触ろうものなら、係員が飛んできて注意を受けている。それだけ、大切にされているということだ。

 なお、園内は舗装されていないため、風が吹くとすぐに塵まみれとなるのが欠点である。だから、風のない日の散策をお勧めする。

(3)サグラダ・ファミリア

 サグラダ・ファミリア教会(Sagrada Familia)は、信者の喜捨で建てられる贖罪教会として1882年に着工されたが、資金難でなかなか工事は進まず、かつては完成まで300年はかかると言われたが、近年のスペイン経済の好調と拝観収入の増加でその時期は早まり、今では2034年頃と見込まれている。

 着工から1年あまりの時に二代目設計者となったのが当時は無名のガウディで、1926年に亡くなるまで心血を注いでその任に当たった。1936年に始まったスペイン内戦でガウディの資料が散逸したが、その構想を推測しながら、今も建築が続けられている。

 ちなみに、スペイン内戦(1936-1939年)時には、バルセロナは共和派の拠点となり、このサグラダ・ファミリアにも砲弾が撃ち込まれて、大穴が空いたというから、何という蛮行なのかと驚く。





 外側には立派な彫刻がある。私はあまりカトリックには詳しくないことから解説者の英語の専門用語があまり聞き取れなかったので、Wikipediaの解説を引用すると、「東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する・・・西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている」そうだ。

 これらの彫刻を取り仕切っているのは、日本人の彫刻家の外尾悦郎さんとのこと。だから、西と東とでは彫刻の顔が全く違っていて、片方は日本人の顔に似ているとの地元の噂がある。しかし、都市伝説かもしれず、真偽はわからない。

 中に入ると、まずその高さに驚く。外側の尖塔の高さは世界一高い172mというが、確かに内部もこんなに高い教会は見たことがない。太い柱が数多く立ち並ぶところはゴシック建築風なのだが、既存のヨーロッパの教会のような重厚で暗くて重々しい感じは全くない。それどころか実に軽やかなのである。というのは、柱の数がそれほど多くないことに加えて、柱そのもの形が、表面が波打っており、まるで大木の表面のようだ。つまり、大木が疎らに立つ林の中に迷い込んだようなのである。



 それに、正面の祭壇の上にある磔のキリストの像が、いかにも軽やかに宙に浮いている。これが実に洒落ていて近代的なのである。そして、祭壇に向かって右側には、緑と青が基調の大きなステンドグラスが飾られており、左側には、それとはうってかわって赤やオレンジ色が基調のステンドグラスとなっている。その両側からの光が差し込み、内部がとても明るい反面、とても幻想的で、これこそ近代のカトリック教会だという気がする。

(4)カサ・バトリョ

 グラシア通り43番地に位置するカサ・バトリョ (Casa Batllo)は、1877年に建設された建物である。バスで通りかかっただけだが、この建物はガウディが設計したもので、薄いグリーンを基調とした色鮮やかな外観とウェーブのある独特な形状が目を引いた。

 こちらは、繊維業の大物ジュゼップ・バッリョ・イ・カザノバスの依頼を受け、1904年から1906年にかけて、その邸宅の改築を行ったものである。この改築でガウディは、建物の外側のみならず、各部屋にまで曲線的なデザインを持ち込んだという。

(5)カサ・ミラ


 グラシア通りにあるこの建物 (Casa Mila)は、1906年から1910年にかけて実業家のペレ・ミラとその妻ルゼー・セギモンの邸宅として建設された。別名「ラ・ペドレラ」と言われるが、ウェーブのような波打った石の外壁が特徴的で、屋上の煙突もユニークである。建築当時、あまりに妙な建物だったことから借り手がつかなかった。そこで、親子孫三代にわたって安く貸すという条件で貸し出し、世界遺産になった今でもその借り手が残っているそうだ。

 ちなみに、上記グエル公園、サグラダファミリア、カサ・バトリョ、カサ・ミラは、「アントニ・ガウディの作品群」として、ユネスコの世界遺産に登録されている。

(6)ラ・ボケリア市場 (La Boqueria Market)

 繁華街のランブラ通りをしばらく歩いて行くと、右手に地元のマーケットのボケリア市場がある。新鮮な食材や地元の特産品が並べてあり、見ていて楽しい。例えば、旅行者が食べやすいように、色々な果物をカットして、透明なカップに入れてある。生牡蠣まであるのには、驚いた。

 ただし、人出が多いので、スリに注意するように言われた。だから、左手は常に財布を押さえていたので右手一本でカメラのシャッターを押さないといけないという妙なことになる。これはもう、笑い話だ。

(7)観光客「帰れ」デモ

 バルセロナでは、今年の7月6日、オーバー・ツーリズム(観光公害)に抗議する数千人規模のデモがあった。「バルセロナは売り物じゃない」「観光客は帰れ」などと書かれたプラカードを持ち、観光客に水鉄砲を浴びせるシーンすらあったという。地元住民はオーバーツーリズムのせいで物価が上がり、家賃の高騰や「住みにくい街」になったと考えているそうだ。

 最近の観光ブームに水を差す動きではあるが、ただこれで、スペインを目指す観光客が減るというわけではないと思われる。現に、私も来ているわけだから。ただ、道を歩く時に地元民の通行の邪魔をしないようにしたりして、気を付けるようにした。

(8)スペイン料理

 スペインで食事するのであれば、本場のパエリアを食べてみたいと思っていたら、嬉しいことにその日の夕食は、まさにそのパエリアだった。これは、海産物にサフランをかけて生のお米をそのまま一緒に平らな鍋で煮たもので、日本でもよく食べる。お米に「芯」が残っていないか、そのくせ柔らか過ぎないかが美味しいかどうかのポイントだが、この日のパエリアは、期待以上で、誠に美味だった。


 ガスパーチョ(冷製スープ)と、サングリア(フルーツ入りの赤ワイン)についても、本場物を味わった。いずれも大層美味しかった。トルティージャ(玉子焼き)も、この旅行中に食べてみようと思っている。


3.ポルト(ポルトガル)

(1)ポルトの歴史


 ポルトの起源は、バルセロナと同じく古代ローマにさかのぼる。紀元前1世紀頃、ローマ人が「ポルタ(Portus)」という名前でこの地に町を築いた。この名は「港」を意味し、後にこの町が「ポルト」として知られるようになった。

 ローマ帝国崩壊後、イベリア半島にゲルマン民族の侵攻を受ける中、ポルトはキリスト教徒の支配下に入った。1147年にはポルトガル王国の一部となり、教会や修道院が多く建設され、商業も活発に行われた。

 15世紀から17世紀にかけて、ポルトは大航海時代の中心地となり、世界各地との交易が行われた。この時期、ポルトにはワイン産業が発展し、ポートワインが有名になった。

 19世紀には産業革命が進み、ポルトは工業都市としても発展した。また、1865年にはドウロ川にかかる有名なドン・ルイス1世橋が完成し、交通の要所としてさらに重要性を増した。

 20世紀になると観光業が発展し、多くの観光客がポルトを訪れるようになった。2012年には、ポルトの歴史的中心部がユネスコの世界遺産に登録され、街の歴史的価値が改めて認識されるようになった(以上、AIChatを適宜要約した)。


(2)最初のポルトガル料理にがっかり

 着いたその日の夕食は、サンタ・カタリーナ通りとフェロモーサ通りの交差点近くの市場の上にあるポルトガル料理の店(Herdade 1980)だった。最初、油で揚げたお団子のようなものが3種類出て来たが、いずれもそんなに美味しくない。次いで鶏とダックの混ぜご飯のようなものを持って来られたものの、これまた、色も味もぱっとしない。いささか、がっかりした。ただ、最後のデザートだけは、私の口に合うものだった。

 バルセロナでは、海鮮パエリアとガスパッチョのスープが美味しかったのに、それに比べて、ここポルトガルの料理は、こんな程度のものなのだろうか。

(2)聖フランシス教会

 聖フランシス教会 (Church of Saint Francis)の前を通ったが、外観は完全なゴシック様式で、古臭いといえば、その通りである。残念ながら中に入ることは叶わなかったが、そうした外観とは裏腹に、内部はバロック様式の豪華な装飾が施されているようで、それを物語る写真があった。

(3)エンリケ航海王子の像

 エンリケ航海王子の像が、聖フランシス教会の前の広場にあった。この王子は、1394年にここポルトで生まれた。自らは航海をしなかったが、航海者の強力なパトロンとして資金援助をし、大西洋への進出に情熱を傾けた。特にそれまで知られていなかったアフリカ西岸を探検させるなど、大航海時代の幕を開けた功績者と言われる。



(4)ドン・ルイス1世橋

 ドン・ルイス1世橋 (Dom Luis Bridge)は、ドウロ川に架る橋で、ポルトと対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアを結ぶ鉄橋である。



 聖フランシス教会の近くで、「ここがその橋だ」と言われた方に歩いて行くと、トンネルから電車が出て来てその橋を渡っていくではないか。それに気をつけながら、橋桁の真ん中辺りまで行くと、ドウロ川の真上に出て、眺めが良い。しかし、橋の全体像がここからはわからない。何とも残念な気がして戻ってきた。橋の袂で絵描きが売っている絵を見て、これかと納得した。もっとも、そのすぐ後で、別の場所から改めてじっくり眺めることになる。

 この橋は、エッフェル塔の設計者によってデザインされたそうだ。橋の一番上が電車が通る橋桁で、それを支えるために美しいアーチがかかっており、一番下が道路用で単なる平らな橋桁である。

(5)サン・ベント駅と戦闘広場

 そこからほど近いサン・ベント駅を訪れた。駅内部の青いタイル(アズレージョ)が美しく、薄い青と白の絵が描かれていた。題材は風景と女性で、なかなか由緒あるものと見受けられた。



 サント・イルデフォンソ通りを上がって行って、リベルダーデ広場に出た。周りには劇場など味のある建物がある。ここは別名を「戦闘広場」と言って、昔々キリスト教徒軍とイスラム教徒軍とが死闘を繰り広げた場所だという。

(6)リベイラ地区の散策

 ドウロ川沿いの美しいリベイラ地区を歩き、川の対岸の色とりどりの家や建物や物売りなどを冷やかしながらのんびりと散歩する。

 遥か向こうには、ドン・ルイス1世橋が架かり、やっとその全体像が見えた。なるほど、上層と下層には直線的な橋桁が通っていて、それらの間には、美しく弧を描くアーチがある。エッフェル塔の建築家が設計しただけのことはある。この日は日曜日だったものだから、遠目で見ると、上も下の橋桁も、大勢の方が行き交っていた。下は、歩行者だけでなく自動車も通れるようだ。




 また、視野をドウロ川沿いに戻して、ふと上を見ると、ロープウェイが行き交っているではないか。音が全くしないので、気が付かなかった。なるほど、空中からも、この景色を楽しめるというわけだ。そうやってぶらぶら歩きながら着いたのが、川沿いのガラスのコンテナのような建物にあるレストランである。昨晩の不味いお団子と混ぜご飯から、大して期待をしていなかった



 ところが、最初に提供された海老のスープで見直した。これは美味しい!素材の味が出ているし、塩っぱくない。次いで出されたメインの鱈の料理は、味付けも、素材の味も、付け合わせの野菜やじゃが芋も、いずれも及第点だった。最後のデザートも、やや甘かったが美味しかった。「やはり、昨晩のレストランがダメだったのか、なにせ、市場の上だからな」と独りごちた。

(7)ポルトワイン醸造所

 ドウロ川添いのポルトワインの醸造所を訪れた。商品名は、CALEM である。ワインの製造過程の説明を受けた。ワインの樽が積み上がる中を抜けて、ワインの試飲があった。


 私は酒を飲まないことにしているので、ちょっと口にしただけだが、甘くて口当たりがよい。でも、アルコール度が20%前後と、普通のワインの14%前後と比べてやや高いそうだ。そういえば、私が大学を卒業した昭和48年には、赤玉ポートワインなるものがあって、それとどうも同じ味のような気がした。

 ここまでの旅を振り返ると、バルセロナは、ガウディで始まりガウディで終わる街だったのに対して、ここポルトの街は、その景色が、まるで15世紀から19世紀までの古い街並みを観ているようである。


4.リスボン(ポルトガル)

(1)リスボンの歴史


 リスボンの歴史は、非常に古い。古代、リスボン地域には紀元前フェニキア人が商業拠点を築いたとされ、交易を行っていた。紀元前1世紀になってローマがこの地を征服し、それ以降、リスボンはローマ帝国の重要な港町として繁栄した。

 中世になると、5世紀頃、ゲルマン系の西ゴート族が侵攻し、その後イスラム教徒のムーア人が8世紀に侵入した。彼らはリスボンを400年間にわたって支配した。

 ところが1147年、ポルトガル王アフォンソ1世がイスラム教徒からリスボンを奪還し、キリスト教徒の支配が始まった。この頃からリスボンはポルトガル王国の首都として発展して行った。

 近世は大航海時代の幕開けで、 15世紀から17世紀にかけて、リスボンは重要な商業港として栄え、多くの海洋探検家(英語ガイドは、「Navigator」と表現していた。)がここを拠点に新世界への航海を行った。この時期、リスボンは世界貿易の中心地となり、アフリカ、アジア、南アメリカとの交易を盛んに行った。

 1755年、リスボンはマグニチュード8.5という大規模な地震に襲われ、街の大部分が壊滅的な被害を受けた。津波による1万人を含む6万人余りが亡くなったと言われる。その後、再建が進められ、近代的な都市計画が適用された。

 19世紀になって産業革命が進む中、リスボンは工業化が進展した。その一方で1842年に初めての憲法が制定され、民主主義的な政治体制が成立した。ところが、20世紀前半にはアントニオ・サラザール政権が確立され、独裁体制が続いた。しかし、1974年の平和的なカーネーション革命によって民主化が実現し、政治的な自由がもたらされた。

 その後ポルトガルは1986年にEUに加盟し、リスボンはその中心的な都市として経済や文化の発展が続いている(以上、AIChatを適宜要約した)。


(2)ペーナ国立宮殿

 ペーナ国立宮殿 (Pena National Palace)は、リスボン郊外のシントラという所にあり、し、19世紀に建設されたロマン主義建築の傑作と評される。欧州やイスラム、果てはインド風の玉ねぎ塔など、世界各地の意匠が混ざったカラフルな外観と独特なデザインが特徴である。ただし、統一感は全くない。ごちゃ混ぜと言った具合である。宮殿は小規模ながら、その中には豪華な部屋やアランブラ宮殿を思い起こさせる美しい庭園があり、見ごたえがある。





 この宮殿は、1836年に女王マリア2世の配偶者であるフェルナンド2世により建てられた。ある日彼は初めて山に登り、大地震の被害を受けた修道院の廃墟を目にした。そこで、無傷であった礼拝堂を中心に、ここにポルトガル王室の夏の離宮を作ろうとした。それも、異国風でロマンチックなものという注文だったそうな。





 だからというのも言い過ぎかもしれないが、色々な様式が混在する摩訶不思議な王宮になったのではないだろうか。ロマン主義という意味では、まるで、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城を彷彿とさせる。

(3)発見のモニュメント

 テージョ川に出て、ベレン地区を歩く。ここには、歴史的な建造物や公園があり、観光名所が点在している。中でもベレンの塔、ブラジルまでの大西洋横断の飛行機、それに発見のモニュメントは見逃せない。

 ベレンの塔は、16世紀に、テージョ川を通行する船を監視する目的で作られた要塞で、世界遺産に登録されている。残念ながら、中に入ることができなかった。



 大西洋横断の飛行機の記念碑は、双葉の水上飛行機サンタ・クルス号の金属レプリカである。これは、ポルトガルの軍人であったサカドゥラ・カブラルらが搭乗した二人乗り水上飛行機を模したもので、1922年3月から6月17日にかけて、リスボンからブラジルのリオデジャネイロまで、初の横断飛行に成功したことを記念して作られた。本物は近くの海洋博物館に置かれている。



 発見のモニュメントは、高さ52mに及ぶ巨大なもので、その先端には、ヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする32人の偉人像を従えてエンリケ航海王子の像が立つ。ちなみにこの地は、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路へ旅立った際の船出の港であり、1960年に王子の没後500年を記念して建てられたという。

 リスボンの名物スイーツといえば、エッグタルト「パステル・デ・ナタ」だそうだ。そこで、1837年からの老舗であるエッグタルトのお店「パステイス・デ・ベレン」で食べみた。確かに美味しい。クリーミーで甘いカスタードが詰まっていて、しかも表面が少し焦がしてあり、それがまた香ばしい。実は、ホテルでの朝食にもあったが、味はこの店のとは全然違っていた。





 発見のモニュメントから歩いてインペーリオ広場の向こう側に出ると、そこにはジェロニモス修道院 (Jeronimos Monastery)がある。この白くて壮大な修道院は、ユネスコの世界遺産に登録されている。15世紀に建設され、外側にはマヌエル様式の美しい彫刻が施されている。これもまた、残念ながら中に入る時間がなかった。その辺りの海岸べりに、ポルトガルの海洋進出の経緯が書いてある地面埋め込みのレリーフがある。これによると、北アフリカ沖合のアゾレス諸島の発見が1427年、インドのゴアが1498年、日本の種子島が1541年と、わずか120年間余りで東端の日本まで到達したことになる。当時の航海がさぞや危険と隣り合わせだったことを考えると、実に凄いことだと言うほかない。

(4)ペドロ4世広場

 ロシオ広場(ペドロ4世広場)に来た。そこに高々と聳え立つ白い円柱の上にある銅像は、ドン・ペドロ4世である。この人はアラゴン王で、1336年に王位に就き、初代のブラジル皇帝となったという。

 大きな広場の一方を占めるのが、フランス製の噴水である。残念ながら、この日は平日のため、水が出ていなかった。

 その近くのレストランで、蛸を食べたのだが、これが本当に美味だった。付け合わせの野菜は、ブロッコリーとジャガイモである。

(5)4月25日橋

 4月25日橋 (25th April Bridge)は、タホ川を横断してリスボンとアルマダを結ぶもので、まるでサンフランシスコのゴールデンゲートを思い出すような形をしていることから、「ポルトガルのゴールデンゲート」とも呼ばれている。

 1966年に開通した当初は、当時のポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールにちなみ、サラザール橋と呼ばれていたが、1974年4月25日のカーネーション革命のすぐ後、この平和革命が起こった日から名前をとって改称された。


5.セビリア(スペイン)

(1)途中にギリシャ風の街並み


 リスボンからセビリア(Seville)に行くのに、バスで400kmを走破しなければならない。途中、アルブフェイラという地中海を望む海岸べりの街を通ったが、家々の外壁が全て白くて美しく、まるでギリシャの街を見ているようだった。

アルブフェイラ


アルブフェイラ


アルブフェイラ


屋根から突き出ている白い煙突のような物


 しばらく走ると、それぞれの家の屋根に白い煙突のような物が1本あるいは2本と、突き出ているのを見つけた。煙突にしては細過ぎるからあまり実用的ではない。何だろうと思ったら、一行の中の建築家が評するには、「かつては本当の煙突、それから換気口のようなものになったが、今では単なる装飾ではないか」ということらしい。

(2)セビリアの歴史

 セビリアの歴史をみると、まず紀元前8世紀頃、フェニキア人がこの地域に入植し、その後、ローマ人がこれを征服した。ローマ人は「ヒスパリス(Hispalis)」と名付け、商業と政治の中心地として発展した。その頃の遺跡も数多く、街の基盤が築かれた。

 711年、ムーア人がイベリア半島に侵入し、セビリアは「イシビリヤ(Ishbiliya)」として知られるようになった。この時期、建築や科学、文化が飛躍的に発展し、特に美しいモスクや庭園が築かれた。

 1248年、カスティーリャ王フェルナンド3世がセビリアを奪還し、キリスト教徒の支配が始まった。これにより、セビリア大聖堂やアルカサル(王宮)などの宗教的・政治的建物が建設され、街の発展が続いた。

 15世紀から17世紀にかけての大航海時代に、セビリアは地理的に恵まれた位置にあったことから、その中心地として栄えた。新世界との交易が盛んになり、特にアメリカ大陸から持ち帰られた財宝により、経済が大いに潤った。この時期、セビリアはスペイン王国の富を象徴する都市となったのである。

 ところが、1755年のリスボン大地震の影響で、ポルトガルとの貿易が縮小し、セビリアは経済的な困難に直面した。その後、再建を目指す努力が行われた。

  19世紀に入ると、セビリアでも産業革命が進み、鉄道の建設などに伴い経済が再び活性化した。その一方で、政治的には不安定な時代が続いた。

 1936年から1939年にかけてのスペイン内戦は、セビリアにも大きな影響を与えた。内戦後、フランコ政権下で抑圧的な政治体制が続いた。

 1975年にフランコが死去した後、スペイン全体でようやく民主化が進み、セビリアも新たな政治と社会の変革の時期を迎えた。

 21世紀に入ると、セビリアは豊かな文化の中心地として世界中から注目され、観光業が発展した。ここセビリアを発祥の地とするフラメンコだけでなく、様々なフェスティバル、世界遺産に登録された建築物が観光客を魅了するようになった。(以上、AIChatを適宜要約した)


(3)フラメンコ鑑賞

 セビリアのイスラ・マヒコという遊園地に大きな会場があり、そこでフラメンコ (Flamenco)のディナーショーを楽しんできた。客席は半円形のすり鉢状になっていて、その底に浮き上がった舞台がある。舞台上は、向かって左手に3つほど椅子があって、そこに踊り子が座り、真ん中には男性の歌い手とギター弾き、右手には数人の男性が合唱している。左の椅子から踊り子が一人一人出てきて踊り出す。女性が裾の長い衣装の時はそれを跳ね上げ、裾が短くてもタップダンスの時はスカートをたくしあげて踊る。



 静かに微かなタップを踏んでいたかと思うと、タップの音が急に大きくなり、テンポが早くなってグルグル狂ったように回転し、オーレッという掛け声に合わせてビタっと止まり、片手を上げて決めポーズをする。もう拍手喝采だ。そういう派手な上半身の動きばかりに気を取られるものなのだが、実は足元で非常に繊細なタップダンスを伴うものであることが、よく分かった。男性が出てきて、微かなタップから、だんだん音も大きく激しくなって、舞台狭しとグルグル回り、両手を斜めに広げて「V」字型にしたり、いやまあ凄いと思ったところで、急に止まる。またオーレッだ。かっこいい!



 タータララッタ・タララララーというカルメン行進曲とともに赤い衣装のカルメンが出てきて、踊り出す。その一方で、青い制服を着た二人の衛兵が立ち並んで近づいてくる。一人は、ドン・ホセなのだろう。しばらく絡み合いがあって、大円団で、ドン・ホセがカルメンを刺し殺す場面がある。カルメン行進曲が胸に響く。忘れられない場面だ。刺されてホセに抱えられ、カルメンはそのまま倒れる、、、そのところで照明を暗くすれば良いのに、カルメンがそれからにこやかに立ち上がったのには、がっかりしたと言うか、何というか。演出下手としか言いようがない。


一瞬、舞台が暗くなったかと思うと、机が置かれて、その上に男性が立ち、またタップダンスが始まった。それはよいのだが、昔見た時はこれをビールの樽の上で踊ったから、雰囲気があった。いかにも酒場の余興という感じがしたし、それが女性の踊り手なら、裾の長い衣装が樽の上から垂れて、格好が良かったものだ、、、いやいや、昔ばなしはもうやめよう。それより、撮ったビデオと写真が写っているかが気になる、、、確認すると、暗くて動きの早い舞台だが、それなりに写っていたので、安心した。

 そういうわけで、ここセビリアがフラメンコ踊りの発祥の地だけあって、フラメンコを心から楽しむことができた。カルメン行進曲がまだ耳に鳴り響いている。

 ちなみに、ディナーは、前菜に生ハムとチーズ、メインがマグロのブツ切りに野菜添えで、マグロは煮加減もちょうどよくて美味しかった。そういうわけで、目も耳も口も、幸せな日を過ごした。

(4)エスパーニャ広場

 エスパーニャ広場(Plaza de Espana)は、1929年のイベロアメリカ博覧会のために建造された。半円形をしていて、ものすごく広い。大きな噴水もある。周囲には、スペインの全県を描いた陶器製の絵とベンチが並んでいて、まるで、植民地のオンパレードだ。半円形の両脇には、立派な塔がそれぞれに建てられていて、見応えがある。入り口から入って、直ぐに陶器製の橋があり、なかなかのものである。






 物売りが広場に敷物を敷いて、その上に品物を並べている。品物は、カスタネットとか、扇とかだが、しばしそれに見とていると、瞬きする間にサーっと片付けて、いなくなってしまった。どうやら警官が来て取り締まるのを避けるためのようだ。

(5)セビリア大聖堂

 セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)は、スペインで最大の規模を誇る実に壮大なゴシック様式の建物である。しかし、感覚的に何か違うと思ったら、レコンキスタで13世紀にイスラムのモスクを無理矢理カソリックの聖堂にしたものだそうだ。その後に建て替えられたとはいえ、基礎をそのまま使ったことから、建物は十字形になっていないとか、内部の装飾の一部がイスラム風であったりと、違和感があるのは当たり前のようだ。ここに、クリストファー・コロンブスの墓(下の4人で棺を担いでいる像)があるとは、知らなかった。



クリストファー・コロンブスの墓



 それにしても、ため息が出るほどに立派な大聖堂である。これでは、たとえ免罪符を売り付けられたとしても、一般庶民がカトリックに従うわけだと思った。

 隣接するヒラルダの塔 (La Giralda)に登った。この塔は、Wikipedia(英語版)によると「セビリア大聖堂の鐘楼である。アルモハード王朝の治世中に、セビリアの大モスクのミナレットとして建てられた。この地域からイスラム教徒が追放された後、カトリック教徒によってルネサンス様式の鐘楼が追加された」由。







 要は、モスクの尖塔だったのである。この塔からは、セビリアの街並みが一望できた。ただ、縦の穴倉のようなところ(階段ではなく、スロープ)を上へと上へと延々と登っていき、いい加減嫌になった頃にようやく屋上階に到達した。もう一度登れと言われても、あまり行きたくないところだ。

 大聖堂の周りのサンタクルス地区(Santa Cruz)を散策した。ここは、石畳の迷路のような小道が四方八方に通じており、しかも曲がりくねっているから、つい方向感覚を失うほどだ。このアンダルシア地方特有の白壁の家々が建ち並ぶこの地区には、レストラン、コーヒーショップ、土産物屋、お菓子屋、小さなギャラリーなどがある。ここは、かつてユダヤ人街だったそうだ。




 あちこちに、フラメンコの公演切符を売る看板が出ていた、、、観たいなぁと思うが、叶わない。これが団体旅行の制約だから仕方がない。


6.コルドバ(スペイン)

(1)コルドバの歴史





 コルドバ(Cordoba)の歴史も、ローマ時代に遡る。紀元前3世紀にローマによって建設され、「コルドバ(Cordoba)」と名付けられた。ローマ帝国の一部として発展し、交易や文化の中心地となった。ローマ時代の遺跡が今でも市内に残っている。

  711年、ムーア人がイベリア半島に侵入し、コルドバを含む広範な地域を征服した。この時期、コルドバは「ウマイヤ朝」の中心地となり、特に文化と科学が栄えた。10世紀には、コルドバは世界で最も大きく、かつ豊かな都市とされ、約百万の人口を抱えていた。この時期、コルドバ大モスク(メスキータ)が建設され、イスラム文化の象徴となった。また、学問や哲学も発展し、アラブ・イスラム文化の中心地として注目された。

 ところが1236年、カスティーリャ王フェルナンド3世がコルドバを征服し、キリスト教徒の支配が始まった。この時、コルドバ大モスク(メスキータ)は大聖堂に転用され、キリスト教とイスラム教の文化が共存する場所として知られるようになった。

 16世紀から17世紀にかけて、コルドバはスペイン帝国の一部として商業が発展し、大いに栄えたものの、大航海時代で他の都市が発展する中、徐々にコルドバの重要性は、かつてほどではなくなってきた。

 18世紀にはコルドバは明らかに衰退の時期を迎えたが、産業革命の影響を受け、少しずつ経済的に上向いてきた。

 19世紀から20世紀にかけてのスペインにおける政治的変革の中で、コルドバの都市構造も影響を受け、近代化が進んでいった。

 21世紀に入ると、コルドバはその歴史的な遺産と文化により観光地としての地位を確立した。特に、コルドバ大モスク(メスキータ)や旧市街はユネスコの世界遺産に登録され、多くの観光客を迎えている(以上、AIChatを適宜要約した)。


(2)カジェヤ・デ・ラス・フローレス

 カジェヤ・デ・ラス・フローレス (Calleja de las Flores)という名のこの狭い路地は、コルドバにある最も美しい場所の一つと言われている。





 壁に花が飾られ、その色に合わせてドアも青色だったり、紫色だったりと様々で、色彩豊かな風景が楽しめる。路地の終わりにはメスキータの塔が見えるポイントがあり、写真撮影の名所としても知られている。散策しながら、楽しめる。

(3)メスキータ・カテドラル

 聖マリア大聖堂、通称メスキータ・カテドラル(Mezquita Cathedral)は、コルドバの象徴とも言われる美しい建物で、もともとはイスラム教のモスク(メスキータ)として建設された。それも、何代にわたって拡張された後、キリスト教徒が支配を取り戻してから中の柱を一部取り去って、そこにカトリック教会を強引に作ったものだから、教会とモスクが混然と一体になった不思議な空間を作り出している。






 内部は、円柱とアーチが作り出す幻想的な空間で、基本的にはモスクなものだから、その気でいると、突然、教会が現れてびっくりする。全体の円柱は600本余りというが、そのうち真ん中の60本を取り去って、昨日見たセビリア大聖堂様のものが鎮座している。バロック様式だという。ユネスコの世界遺産にも登録されている。

(4)見逃した王宮

 キリスト教徒の王宮 (The Alcazar de los Reyes Cristianos)に行きたかったが、片道1km歩く必要があるということで、断念した。この王宮は、かつてイスラム教徒の統治下にあったコルドバの歴史ある要塞で、後にカスティーリャ王国の王宮となった。美しい庭園や噴水が広がり、素晴らしい景観を楽しめるだけでなく、内部には歴史的な部屋や施設があり、当時の生活様式を垣間見ることができというが、今回は縁がなかったと諦めよう。

(5)地元メニューのランチ

 お昼は、地元メニューのランチを楽しむということで、地元のタパスバーでいただくことになり、ウェイトレスに何が良いかと聞いた。

 ウェイトレスのパトリシアさんお勧めの「フラウン」(揚げたナス)、「サルモレホ」(冷製スープ)、「トルティージャ」(オムレツ)、バカラオ(鱈のフライ)、「アルボンディガ」(チキンボールのカレー味)、「タンタレチョコラテ」(チョコレートケーキ)を頼んだが、何というか、食べ慣れているトルティージャ以外は、そんなに美味しいものではなかった。


7.トレド(スペイン)

(1)トレドの歴史


 トレド(Toledo)に最初に定住したのは、ケルト人やイベリア人とされている。ところが紀元前1世紀、ローマ人がこの地を征服し、「トレド(Toletum)」と名付けた。以来ローマ帝国の一部として発展し、商業と文化の中心地となった。現在でもローマ時代の遺跡が残っている。

 5世紀から8世紀にかけて、トレドはゲルマン系の西ゴート王国の首都となる。この時期、キリスト教とゲルマン文化が相互に影響を及ぼし、宗教的な議論が行われた。

 711年、ムーア人がトレドを征服し、イスラム国の支配下に入った。トレドは「タレド」と呼ばれ、多くの文化と学問が栄えた時代となった。この時期、トレドは学問の中心地として知られ、アラビア語、ラテン語、ギリシャ語の文献の翻訳が進んだ。

 1085年、カステリャ王アルフォンソ6世がトレドを占領し、キリスト教徒の支配が再開された。この時期、さまざまな宗教が共存し、トレドは「三文化(キリスト、イスラム、ユダヤ)の都市」として知られるようになる。

 近世のトレドは、レコンキスタ(キリスト教徒によるイスラム支配地域の再征服)の重要な中心地として、宗教的、政治的に重要な役割を果たした。

 16世紀にはスペイン帝国の首都の一つとして栄え、重要な文化の発信地となった。この時期、エル・グレコなどの芸術家が活躍し、トレドの文化的な影響力が高まった。

 20世紀には、トレドは観光地としての地位を確立し、多くの観光客が訪れるようになった。近代化が進む中でも、古い街並みや歴史的遺産が保護されている。1986年、トレドの旧市街はユネスコの世界遺産に登録され、世界的な観光地としての地位を確立した(以上、AIChatを適宜要約した)。


(2)トレドの眺望

 トレドを一望できる所があって、そこから手前のテージョ川が蛇行して「U」字のように形になる中、それを入れてトレドの街の写真を撮った。眼前にはまるで中世の城砦都市のごとき世界が広がる。






 薄い煉瓦色一色の市内にあって、尖塔のあるトレド大聖堂 (Toledo Cathedral)と、四角いアルカサル宮殿(トレドの要塞で、現在は軍事博物館)が印象的だった。川沿いにその先にある中世そのもののサン・マルティン橋 (San Martin Bridge。1370年建築)からの眺めも、これまた大層素晴らしかった。いずれも、今回の旅行随一の眺望だった。

(3)トレド市内の散歩

 バスが駐車場に着いた。見上げるような城壁に沿って歩いた。こんな所を登るのか、さすが元要塞だなと憂鬱な気でいたところ、それは杞憂で、ちゃんとエスカレーターがあり、それを3台も乗り継いで丘の上つまりトレド市内に入った。上がった所で外を見渡すと、眼前に見渡す限り街が広がっている。これが新市街だそうだ。それに対して、この城壁の中が旧市街で、人口は7,000人とのこと。





 旧市街は、石畳の狭い道で、真ん中が排水のために溝となっている。それがうねり曲がっているし、加えて道が狭くなったり少し広くなったり、坂になっていたりする。加えてそんな道なのに自動車も次々と来るので、それを避けているといつの間にか方向感覚を見失うのである。なるほど、これが中世の世界かと思う。

 そういう道をガイドを先頭に歩いていくと、いつの間にかトレド大聖堂がある広場に出て、これが街の中心なのだそうだ。ゴシック様式の教会であるサン・フアン・デ・ロス・レイエス教会が美しい。その他、画家エル・グレコの生家が博物館として近くにあったというが、見逃した。

 そこから、ほど近いレストランに着き、その建物の地下で夕食だ。一つの皿にパンが乗っていて、手持ち無沙汰だからそれをかじっていると、トマトの薄切りに鮪の缶詰を開けたようなものを持ってきた。ひょっとして、これが前菜か、、、ちゃんとしたサラダはないのか、、、と思いながら口にしていると、次にポークの薄切りを揚げたものを持って来た。スターターにしては重いなぁとは考えたが、仕方がないので、食べていた。

 もうその辺りでお腹の7割がいっぱいだというのに、メインとして頼んでいた鮪のステーキが来た。その大きさにびっくりした。まず、厚さが2cm近くはある。大きさも私の手のひらぐらいだし、しかも二段となっている。これは、手強い。

 よし、平らげるかと決心して、切って口に入れたら、口の中でほろほろととろけるようで、口当たりは良いし、味もよい。その鮪ステーキの下には、大きくカットされた胡瓜とパプリカがあり、こちらも美味しい。いつの間にか、平らげてしまった。最後のデザートは、日本のプッチンプリンのようなプリンが来て、これも美味しくいただいた。


8.マドリード(スペイン)

(1)マドリードの歴史


 マドリード(Madrid)の起源は、紀元前2世紀頃の古代ローマにさかのぼる。ローマ人はこの地域を「メディナ・ブラ(Mediolanum)」と呼び、素朴な城塞を築いた。この時期にはそれほど重要な都市ではなかった。

 8世紀初頭、ムーア人がイベリア半島を征服し、マドリードもその影響を受けた。彼らはこの地区に「マジュリト(Magerit)」という名前を付け、要塞都市として発展させた。この時期、マドリードはその地理的位置から戦略的に重要な役割を果たした。

 1083年、カスティーリャ王アルフォンソ6世がマドリードを征服し、キリスト教徒の支配下に置いた。その後、マドリードはカスティーリャ王国の重要な都市として成長していった。

 1561年、スペイン王フェリペ2世がマドリードをスペインの首都と定めた。これにより、政治、文化、経済の中心地として発展が加速していった。

 17世紀になると、マドリードで多くの名画や文学が生まれ、文化的な都市としての地位が確立された。とりわけプラド美術館が設立され、著名な芸術家たちが活躍したことが大きかった。

 1808年、ナポレオン戦争によりマドリードはフランス軍による占領を受け、混乱の時期が続いた。戦争後、スペインでの政治的変革が進み、民主化が図られていった。

 1936年から1939年にかけてのスペイン内戦時、マドリードでも激しい戦闘が行われた。内戦後、フランコ政権による独裁が続いたが、経済復興が進む中で都市は再建された。

 1975年にフランコが死去し、スペイン全体で民主化が進展した。マドリードは新しい政治体制の中心地として発展を続け、国際的な都市へと成長していった。

 現在のマドリードは、スペインの首都として政治、経済、文化の中心地であり、欧州連合(EU)の重要な拠点でもある(以上、AIChatを適宜要約した)。




(2)マドリード市内

 文字通り車窓からの眺めで、王宮、オペラ座、スペイン銀行、闘牛場、ドンキホーテとサンチョパンサの像などをサーっと見て回り、それでおしまいだったから、拍子抜けした。まあ、良いか、、、前回来た時は、プラド美術館をじっくり見学したから、今回はこれで良いとしよう。


9.セゴビア(スペイン)

(1)セゴビアの歴史


 セゴビア(Segovia)は、スペインのカスティーリャ・イ・レオン州に位置する都市で、豊かな歴史を持っている。

 セゴビアは、ローマ時代に重要な都市だった。市内には今もローマ時代の水道橋(アクエダクト)が残っており、この構造物は1世紀に建設されたものと言われる。

 711年にイスラム教徒がスペインに侵入し、セゴビアも一時的にムーア人の支配下に置かれた。しかし、11世紀にはキリスト教徒によるレコンキスタ(再征服)の一環として奪回された。

 セゴビアはカスティーリャ王国の重要な都市となり、特に城(アルカサル)は王室にとって戦略的な拠点となっていた。

 16世紀には、スペインの皇帝フィリペ2世の下で発展が著しく、セゴビアは重要な行政や文化の中心地となった。

 19世紀には産業革命の影響を受け、都市の構造や経済が変化したが、セゴビアは観光地としても認識されるようになった。

 1985年、セゴビアの歴史的な中心部がユネスコの世界遺産に登録された。特にローマ水道橋やアルカサル、ゴシック様式のセゴビア大聖堂など、多くの歴史的建物が観光名所となっている(以上、AIChatを適宜要約した)。


(2)ローマ水道橋

 マドリードの標高は500mだそうだが、そこから距離にして90km、車で1時間半の標高1100mのところにセゴビアの街がある。そのローマ水道橋 (Roman Bridge)は、古代ローマ時代に建設され、しかも現在なお利用されているというから驚きだ。二重アーチ構造で高さ28m、全長は約894mもある。コンクリートの類いを一切使わずにただ花崗岩のブロックを組み合わせてこれだけの堅牢な建造物が作られている。しかも、周囲の風景と調和した美しい二重アーチが素晴らしい。



 現代のコンクリートの建物が高々100年しか持たないのに対し、この石造りの建造物が2000年もの間立ち続けて、しかも今なお使われているというのは、ローマの土木技術がいかに優れているかを示している。

(3)セゴビアの散歩

 そのローマ水道橋の根元から、中世風の細くてうねり曲がった路地を上がって行くと、マヨール広場(Plaza Mayor)に出る。この広場には、ゴシック様式のセゴビア大聖堂と市役所がある。




 更に散策を続ける。途中、開けた場所からは、セゴビアの新市街の素晴らしい眺めが広がる。その近くには、ユダヤ教の教会がカトリック教会に転じた古い建物があった。この辺りは、15世紀から16世紀にかけての建物らしい。それを過ぎると、ラ・メルセー広場(Plaza de la Merced)まで来た。この広場に面している教会は、美しいロマネスク様式のサン・アンドレス教会(Iglesia de San Andres)である。



 更にどんどん歩き、セゴビアのアルカサル城に行き着いた。文字通り、中世のお城である。その前の広場からは、田園風景が一望できる。中世は正にこんな世界だったのだろう。緩やかにうねった緑の土地が素敵で、その真ん中に教会がある。何という美しさだろうか。

(4)子豚の丸焼き





 お昼は、メゾン・デ・カンディド(Horne De ASAR)というローマ水道橋近くのレストランで食べたが、子豚の丸焼きが出て来て、コックがそれをお皿で切り刻んで、その皿を投げ捨てるというパフォーマンスまでしてくれた。これは、セゴビア名物の料理として有名な「ロースト・サッキング・ピッグ」というそうで、やわらかな肉質とパリッとした皮のバランスが絶妙で、美味しかった。




 それにしても、セゴビアの気温は低かった。昼前で摂氏9度だから、寒くて、マフラーとマスクをして凌いだ。でも、マドリードの方に降りてくると、16度くらいにはなったので、寒くはなくなった。

(5)ラス・ローザス・ヴィリッジ

 セゴビアからマドリードに向かう途中、Las Rozas Villageに立ち寄った。ここは、いわゆるアウトレットモールで、様々なブランドの店舗が立ち並んでいる。買い物の合間には、レストランやカフェでスペイン料理を楽しむことが出来る。そこで食事をしたかったがとても混んでいたので断念し、マドリードのホテルに帰って近くの香港料理店に行った。


10.旅行後記

(1)ロータリークラブのEさん

 今回のマレーシア発のツアーは総勢28人で、男性は僅か8人、60歳代の女性が主体だから実に喧しい。聞いてみると、そのうち昔からの知り合いが男女8人と女性ばかり5人の二つのグループがいて、だからうるさいのだとわかった。

 8人の方はどんなグループかというと、ロータリークラブだという。Eさん(男性。72歳)が私に「日本でロータリーに入ってないのか」と聞くので、私が「昔、父が入っていたが、ともかくお金が湯水のように出て行くので、『ロータリーだけは入らない方が良い』とアドバイスを受けた」と答えた。

 すると、「マレーシアのロータリーは、そんなことはない。本当の親睦団体だから、こうして一緒に旅行に行ったり、奉仕活動をしたり、ゲームをやったりで、楽しいよ」と言う。たぶん、そうなんだろう。

 今度は私がEさんに「それにしても女性ばかりだね」と聞くと、「いやそうなんだ。特に未亡人が多い。ヘッドハンティングならぬ、ボーイフレンドハンティングが目的だろう」と真顔で答えるから、笑ってしまった。

 ちなみにEさんは、イギリスの大学を出たから流暢な英語を話す。日本大好き人間で、一年に3回は日本に行く。それも、レンタカーを借りて運転して回るというから、相当なものだ。3ヶ月前は飛騨地方を、先月は北海道を、それぞれレンタカーで回って帰ってきたばかりで、飛騨では白川郷、北海道では富良野が良かったそうだ。私が、「どんな日本食が好きか?」と聞くと、「全部だ」と答える。これは相当なものだ。

 それからしばらくして、Eさんが私に近づいてきて、いきなり「あなたは、裁判官だったのではないか」と聞いていた。私は、職業はattorney だとは伝えていたが、裁判官とは言っていなかった。

 「どうしてわかったのか」と聞くと、「先日、大聖堂で司祭の椅子に座ったあなたの姿が実に堂々としていたので、ひょっとしてと思った。自分のロータリークラブにも、何人か元裁判官がいて、その人たちの雰囲気に良く似ているから」と話していた。私は退職後もう5年も経つというのに、未だにそんな雰囲気を持っているようだ。自分では、日常生活ではなるべくそういう気配を消しているつもりだったのに、これには驚いたというか、がっかりしたというか。

(2)白人女性

 変わり種は、白人女性がいたことで、小柄のとても品の良い人だ。オーストラリア人で、マレーシアに50年いるそうだ。ということは、20歳代で当地の人と結婚したとすると、今は70歳とちょっとかと思ったら、漏れ聞くところによると、82歳とのこと。それにしても、良く歩くし元気だ。もちろん、未亡人である。

 面白いのは、オーストリア人なのに当地の中国人風の英語を話していることで、目をつぶって会話を聞いていると、中国人同士の会話と変わらない。なるほど、半世紀もこちらにいると、ここまで、馴染むものかと思う。

 遠くから見ていると、危なかった。マドリード空港の斜め上に動くエスカレーターで、彼女がその荷物をローリーに載せて運んでいて、降りようとした時に、よろけて転けてしまった。後から来る人が上手く避けてくれたから良かってものの、そうでなかったら怪我をするところだった。やはり、この歳で一人旅は危ないと思った。

 クアラルンプール国際空港に着いた時、既に専属運転士が迎えに来ていて、黒塗りの車で颯爽と帰って行った、

(3)香港人カップル

 その他、香港人で、マレーシアの10年ビザを持っているカップルがいた。こちらでは、ある程度のお金を出すと、長期のビザをくれる。それを使ったわけだ。もう6年が過ぎたという。

 旦那さんは白髪の短髪ながら、背筋を伸ばしてシャキシャキと歩く。奥さんも実にスタイル良く、小気味よくさっさと動いている。これで、退職後なのかと思うと、私も負けておられないという気になる。その後、噂によれば、旦那さんの方は67歳、奥さんとともに、ボールルーム・ダンサーだったと聞いて、びっくりした。道理で姿勢が良い訳だ。

 マレーシアでは、香港と同じ広東語が使えるから、日常生活には困らないし、アストロという衛星放送では香港と全く同じ番組が流れているから、これまた外国にいることを感じさせない。ペナンに住んでいるという。

 ただ、警戒してか、外国人の私には、あまり話そうとはしなかった。中国が習近平体制となって、あれだけ弾圧を受けたのだから、仕方がないと思う。

(4)ブルネイ王族の秘書

 面白かったのは、ブルネイに20年いて、王族の一人の秘書をやっていた奥さんがいたことだ。旦那さんもまたブルネイで建築家をしていたそうで、現地で二人の子供を産んで育てたという。

 私もブルネイを訪れて、王族の、はちゃめちゃな生活ぶりを良く知っていたから、そのエピソードを開陳すると、「わかる、わかる」と話が合って、大笑いをした。

 その後の旅でわかったのだが、この元秘書さん、実に細かいことまで見ていて、よく気がつくのである。例えば、彼女と旦那さんのカップルと同じテーブルに座って朝食をとっている時、私がヨーグルトを持ってきて、さあ食べようとしていると、「ちょっと待って」と静止された。何かと思うと、「それは賞味期限が切れている」と指摘された。そうなのかと思って箱の表示を見ると、今日は10月25日なのに、10月23日になっている。なるほど、、、さすが、元秘書だけのことはある。笑うしかない。


11.レコンキスタ

 スペインとポルトガルを語る時に、レコンキスタ(Reconquista)の知識は欠かせない。自分で調べるのはいささか億劫になってきたので、AIChatに聞いてみた。

 レコンキスタは、中世のイベリア半島におけるキリスト教徒によるイスラム教徒支配地域の再征服運動を指す。この運動は約800年にわたって続き、1492年にグラナダが陥落することで完了した。以下にその背景や経過について詳しく説明したい。

 711年、北アフリカからムーア人(イスラム教徒)がイベリア半島に侵攻し、ほぼ全土を征服した(下記注)。この過程でカスティーリャ、アラゴン、レオンなどのキリスト教王国が形成され、彼らはイスラム支配地域である多様な文化と貿易を受け入れることとなる。

 722年、ポリニャーの戦いから始まる小規模な反抗が続いた。キリスト教徒たちは北部の山岳地帯に集まり、自らの国家の基盤を築いていった。

 1085年にはトレドがキリスト教徒によって奪還された。翌1086年から12世紀にかけて、カスティーリャ王国、アラゴン王国、レオン王国などのキリスト教国家が連携し、イスラム教徒の支配地域に対して共に戦った。

 特に12世紀から13世紀にかけては、キリスト教徒により、多くの主要都市が再征服された。その過程で、各王国間での連携や、大規模な戦闘が行われた。

 その仕上げとして、1492年、カスティーリャ王国のフェルナンド2世とアラゴン王国のイサベル1世が共同でグラナダを制圧し、ここにレコンキスタは遂に完結した。この時、グラナダ王国は最後のイスラム教徒の王国となっていたため、歴史的に大きな意義を持つ出来事であった。

  レコンキスタの完了により、イベリア半島は全土がキリスト教徒の支配下に置かれた。しかし、イスラム文化や技術が社会に与えた影響は今も残っている。また、キリスト教徒とイスラム教徒の対立が長期化し、排斥政策が強化されることとなった。

 文化的影響をみると、まず建築分野では、レコンキスタの影響で、イスラム文化とキリスト教文化が融合した建築物が多く存在する。特に、コルドバの大聖堂やセビリアのアルカサルなどがその代表例である。

 文学と科学の分野では、この時期、アラビア語の文献がラテン語やカスティーリャ語に翻訳され、科学や哲学が大いに発展した。

 ということで、レコンキスタは、単なる領土の回復に留まらず、イベリア半島の文化、宗教、社会構造に深遠な影響を与えた歴史的な出来事であるだけでなく、この運動は、イベリア半島のみならずヨーロッパ全体の歴史においても重要な位置を占めている。


(注) 8世紀初頭、イベリア半島のキリスト教国(西ゴート王国)が王位争いと内部での権力争いに苦しんでいた。この混乱がイスラム勢力(ウマイヤ朝)の侵攻を招く一因となった。

 711年、ムーサ・イブン・ヌーサイールが、兵力7,000人(12,000人という説もある)のイスラム軍を率いて西ゴート王国へ侵攻し、短期間で広い範囲を制圧した。その際、内部の対立につけ込む形で勢力を拡大した。

 当時のイベリア半島は、政治的に不安定な状況にあったため、外部勢力が介入しやすい環境にあった。その中でイスラム教徒の進撃は、当初そのままの勢いで進んでいった。









(令和6年10月28日著)
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