This is my essay.





漠然とした不安感

 私は生来、楽観的な物の見方をする方であると思っている。ところがその私にしても、最近のわが国で起こっている出来事の断片をつなぎ合わせてみればみるほど、日本の将来はどうなるのだろうと、一抹の不安を抱くようになりつつある。というのは、わが国の国際競争力の源泉であった産業、技術、人材、組織のいずれの面をとっても、いまや世界一流とはいえないばかりか、いずれもこれから何か大きなブレイク・スルーがあって飛躍的に発展するなどとは、あまり思えないからである。それどころか、アメリカが特に情報技術やバイオ技術を活用して大きく世界をリードしつつあり、わが国はその後塵を拝するがごとくである。他方では、冷戦終結までは鉄や竹のカーテンの向こうで低い生活水準に耐えて黙々と農業に従事していたような人々が、突然この近代工業化社会の渦に巻き込まれて、皆必死で働き始めている。日本は、前からも後ろからも大きな圧力を受けているのである。

 ところがそのわが国といえば、産業は金融界をはじめとして10年も前のバブル経済期の清算に汲々としている。その結果、情報技術の導入で最も大事な時期に投資を手控えざるをえず、発展の機会を逃してしまった。このため、いまや技術は情報もバイオもアメリカに相当のリードをされてしまっているばかりか、韓国、台湾、シンガポールなどの追い上げが急である。残念ながら半導体や機械などのごく一部の分野を除き、現時点で国際競争力が強い分野の例はあまり思い当たらない。そればかりか、これらを支える人材に対する教育も、大学全入時代となったせいもあって、健全な競争すら避けようとする。社会全体からも、個性的な人々がなかなか評価されない仕組みとなっている。

三代目は大丈夫か

 江戸時代でも、商店について「三代目にして身上つぶす」などといわれた。そういえば、昭和20年に終戦を迎えた人々を親世代とすると、その子供たちはいわゆるベビー・ブーム世代であり、その子供たちは孫世代となるから、まさにその三代目に当たるのである。こういうと、全く何の関係もないことだと、これらの孫世代の人たちからは、おしかりを受けるかもしれない。それはそうであるが、親世代は、焼け跡で生きるために必死で働いたものである。その背中を見て子世代は育ち、昭和50年代から60年代にかけての日本の繁栄を築いた。私を含むこれらの世代が、「ああ、やっとこれで日本経済は世界のGNPの一割を占めるようになった」と感激したのは、つい先頃のことである。

 ところがその孫世代となると、無気力新人、切れる17歳、援助交際、茶髪金髪紫髪赤髪、その果てはガングロに山ン婆など、いったいどうなっているのだろうと思う今日この頃である。でも、まあこれらはすべて中年の繰り言と思ってもらっても結構である。刑法に触れたり不道徳な行為は論外であるが、ファッションなどは、その時々の流行の具合でいかようにでも変わっていくものだから、われわれの出る幕ではないのかもしれない。

 それにしても、孫世代の人生に対する情熱のなさや犯罪の凶悪化というのは、どうにかならないものだろうか。しかし考えてみると、社会的道徳やしつけの教育を徹底し、あわせて少年犯罪に対する取締りの強化をすることで、そのかなりの部分には対応できるのかもしれない。私がいま最も深刻に思うことは、これからのわが国の将来を担うべき優秀な人材が日本を見限らないかということである。

人材のアメリカ一極集中

 冷戦が終わり、史上かつてないほど各国間の国際紛争が少なくなりつつあるこれからの世界では、モノ、資金、人材が国境を超えて自由に移動できる社会となるであろう。その場合、全世界の優秀な人材は、より評価され、かつ、より高い待遇を得られる場所へと移動する。現状では、その集まる先はアメリカしか考えられないのである。日本にも来てほしいところであるが、年功序列的な風潮、英語の通用度の低さ、物価の高さ、社会の閉鎖性などもろもろの面からして外国人には生活のしにくいところであり、残念ながらあまり期待することはできない。

 地元からの人材の流出という面では、ちょうど地方在住の両親が味わっている状況と似ている。せっかく大事に育てた息子が、東京の大学に進学してそのまま東京に住み着いて、故郷には盆暮れしか帰ってこないので、寂しいというわけである。これを経済力の面からいえば、本来はその出身地で大いに活躍すべき人材が、言葉は悪いが「東京に吸い上げ」られて、その発展に寄与しているものの、故郷には直接的な経済効果を少しももたらしてはいないのである。この例で、「地方」を日本、「東京」をアメリカと置き換えれば、私の言わんとすることがおわかりであろう。

 現在、経済、政治、技術その他のあらゆる局面で、急速にグローバル化や国際的なハーモナイゼーション化が進んでいる。この場合、その理念や基準となるのは、いわゆるアメリカン・スタンダードである。私はアメリカの社会制度がすべてよいものであるとは決して思っていない。犯罪の多発、野放しの銃器、訴訟社会、貧富の格差、拝金傾向などのどれをとっても、わが国の方がはるかに優れている。しかし、そのアメリカに対して、全世界の富、技術、人材、経済、金融、情報が集中し、その結果おしなべて世界全体がアメリカン・スタンダードになりつつある。

 それでは、なぜアメリカにこれらのものが集中するのであろうか。私が思うに、一言でいえば「アメリカン・ドリーム」があるからである。誰でも、男だろうが女だろうが、肌の色を問わず、精一杯に努力をすれば、それなりの地位と収入と豊かな人生が約束されている土地なのである。このため、19世紀後半の東部アメリカの人々が、金の発掘を夢見てカリフォルニアめざして西へ西へと押し掛けたゴールドラッシュのごとく、現代の世界の若者は、一攫千金を夢見て、アメリカに押し掛けるというわけである。19世紀の場合は掘って金を見つけるという単なる僥倖が成功の鍵であったが、現代の場合はそれが個人の努力と才能となっている。

大英帝国のたどった道

 かくしてアメリカに有為な人材と富が一極集中する結果、各国では人と経済の空洞化が起こるのではないかと懸念するわけである。それにつけても思い出すのが大英帝国である。18世紀から今世紀の前半まで世界一の国家として史上空前の繁栄を謳歌しながら、現在ではヨーロッパの一国に戻ってしまった。その経済力の凋落ぶりは、ポンドの交換レートを見れば一目瞭然である。私の記憶では、昭和40年頃には1ポンドが1000円を超えていたが、現在では100円台の半ばである。もちろん、経済力が衰えたとはいえ、サッチャー首相などその政治的リーダーシップの面では、英国はまだまだ十分に尊敬に値する国である。

 ただ私が言いたいことは、特に経済面での没落は、何が原因でそうなったのかということである。もちろん、20世紀前半の二度にわたる世界大戦と植民地の放棄で国力を消耗してしまったことが、その第一の原因であることは言うまでもない。しかし、私は第二の原因は、豊かになりすぎてその教育の方向を誤り、新しい産業や技術に対応できなかったのではないかと思う。

 もう20年ほども前になるが、当時ロンドン大学教授をしておられた森嶋通夫先生が書かれた英国病に関する書物を読んだことがある
(注1)。私の記憶が正しければ、いわゆるオックスブリッジつまりオックスフォード大学とケンブリッジ大学を卒業した人は、上位の優秀な者ほど教育関係に進むのが大半で、その次の成績の者が金融界に進み、産業界に行くのは底辺の成績の者であるということであった。このような仕組みで、果たして現代の国際的経済競争の時代を乗り切っていけるのかどうか、誠に驚いたことがある。また、これら両大学の下のパブリック・スクールの主な教科では未だにギリシャ・ローマ学やシェークスピアが幅を利かせているという。

 同じくロンドン大学のリチャード・オルドリック教授によると、英国は、18世紀半ばまでの第一次産業革命において世界の工場といわれるまでに発展した。ここで豊かになった経営者層は、その子弟を貴族と同じパブリック・スクールに入れて教育した結果、自らの基盤である経営や技術の教育を忘れ、これが第二次産業革命以降の経済的没落を招いたという
(注2)。上述の森嶋教授の調査と付合する内容である。

 わが国も、豊かになって人々は挑戦の心やハングリー精神が失なわれてきた。その結果、百年一日のごとく内容が変わらない教育が行われているし、あまつさえ最近では学校指導要領の内容が削減されてきつつあるとのことである。大英帝国と同じようにわが国も、教育の失敗を契機に没落への道を歩まないと、誰が断言できるであろうか。かつての東大法学部生の人気就職先は国家公務員のほかは大銀行、生損保、大メーカーであった。ところが金融危機でそれが一変し、最近では一に外資、二に司法関係、三がなくて四が大メーカーであるという。優秀な人材は、国内でも日本企業に見切りをつけはじめたのである。

年功序列と終身雇用の崩壊

 わが国の企業の特徴は、つい最近までは年功序列と終身雇用に守られた強固な家族主義にあったと思う。企業は従業員を最後まで面倒を見、従業員も企業の期待に応えるべく遅くまで一生懸命に働いてきた。これがうまくかみ合ってきたことが日本企業の強みだったわけである。しかしながら、こういう関係は平成不況のもとで崩れてきた。熾烈な国際競争にさらされた企業は、給料水準の高い余剰人員を抱えておく余裕はなくなってきたし、それ以前にM&Aや企業分割を図り、果ては倒産という憂き目に合わないよう防衛に必死である。まさに、年功序列や終身雇用制度は、音を立てて崩れはじめたのである。

 こうした中で一番の悲劇は、そのうち自分も役員になりたいと安い給料で長年勤め上げてきて歳をとり、ようやく役員になれたと思ったその瞬間、会社が倒産し、その責任を株主代表訴訟でとらされたというようなケースである。ここまで極端ではないにせよ、似たような事例は枚挙にいとまがないほどなので、これらを見た優秀な若い人たちが、年功序列の安い給料では割に合わないと思い始めるのも不思議ではない。この人たちも、日本企業に見切りをつける予備軍である。

新規参入者へのチャンス

 加えて、日本の社会のよくないところは、人物というより、勤めている会社で人を判断する傾向がある点である。今は事情が違うのかもしれないが、日米の百貨店に新商品を売り込んだことがある人の話を聞いたことがある。日本の百貨店では、会社の名前を名乗っただけで門前払いだったという。上場はしているものの、東京ではあまり知られていない会社だったからである。ところが、アメリカの百貨店の場合はまるで違っていた。毎週水曜日に特別の時間が設けられていて、売場の担当者が出てきてどの会社のいかなる商品でも話を聞いてくれたという。もちろん売り込みは成功した。それからしばらくたって、そのアメリカでの評判が伝わったらしく、やっと日本の百貨店も興味をみせたというのである。

 このような商慣行を続けていると、新規に参入する者はチャンスを生かせないし、既存の企業ばかりがもたれ合って競争がなくなり、世界企業との競争に負けるのは当然であろう。わが国では新規参入者にチャンスがないというのは、別に産業界に限らず、大学、研究機関、政治など、わが国のほとんどの分野に及んでいるのではなかろうか。こうした事情は、社会的な流動性を減退させ、長期的にはその社会の活力が縮小していく方向に働くのである。

人が国を選ぶ時代

 現代の世界は、大競争の時代といわれる。かつてと異なり、国境の壁が低くなって、人々は自由に国と国との間を往来できるようになった。21世紀には、人々は、自国の繁栄というより、自らの幸福のために自分に有利な国を見つけて、どんどん移住していくという世界になるのではなかろうか。つまり、かつては人は生まれながらにその国にいる世界であったが、21世紀には、人が国を選ぶ世界へと変わっていくのである。

 その予兆は、すでに存在する。元タレントでいまは中小企業経営者である大橋巨泉氏が著した「巨泉」という本がある。これによると、自分たち名義の住宅と別荘、百万ドルの現金、日銭の入る長期的投資が完全なリタイアの条件
(38ページ)を用意して、健康に気を付け、気の合う妻とともに楽しめる趣味を持ち、それに何でも興味をもって好きなように人生を過ごせという。そして、自分たちはこれを実践し、いまはカナダ、ハワイ、ニュージーランドと日本を季節に応じて往来する毎日である。これがベストセラーとなったということは、その考えに共鳴する人たちが相当いるということであろう。

 つまり、明治以来の日本を形作っていた理想的人物像、すなわち刻苦精励して立身出世をする過程で徳を積み、国のために粉骨砕身して働き、すべては世のため人のためにその身を捧げるなどという人物像は、いまや全く時代遅れなのである。明治期にわが国で最初の潜水艦事故で海中深く沈没し、部下とともに再び生きて戻ることのなかった佐久間艦長は、息が苦しい中で部下やその家族を想い、日本の将来を託して亡くなっていった。このような人々は、現在の日本の繁栄を築いていただいた方々として私は感謝をし尊敬もするが、私たちの子供の世代の大半にとって、こうした心情が果たしてわかるであろうか。

 現代の若者にとっては、佐久間艦長より、大橋巨泉氏の方がわかりよいのかもしれない。考えてみると、時代背景が全く異なっている。一方は、常に列強の侵略の脅威にさらされていた時代の人物であり、他方は、東西の冷戦が終わって軍事的脅威が一切取り払われた平和な時代の人物である。わずか半世紀あまりの間に、日本人の理想像にこれほどと思えるばかりの大きな差違が生じてしまった。驚くべきことである。

 私は、ちょうどその二つの人物像の中間にいる。司馬遼太郎文学が好きな私としては、佐久間艦長は心から尊敬できる人物である。また、自分がその真似ができるとも思えないが、大橋巨泉氏の生き方も理解できるのである。私は50歳であるが、たぶん70歳代の私の父親の世代にとっては大橋巨泉氏などは亡国の輩であろうし、逆に20歳代や30歳代の人々にとっては佐久間艦長は理解できないのかもしれない。

 要するにそれぞれの時代背景が異なるのであるから、ここでどちらが正しいかを論じてもあまり生産的ではない。ただ私は、21世紀には、巨泉型の人物が増えていくのは確実であると思っている。そうなると、ますます優秀な人材が各国をわたり歩くようになる。その次の段階として、これらの優秀な人々を引きつける社会的インフラの整備こそが、これからの国家の競争力の源となるのではないかと考える。

強みを生かし弱みをなくす

 世界に対する日本の強みは、安全性、清潔さ、勤勉さ、高い技術力、優秀な行政機構などである。反対に弱みは、高い生活費、非英語圏、社会の閉鎖性などである。これからの日本の為政者のなすべきことは、これらの強みをますます強化し、弱みをなくすことである。しかしながら現実のわが国では、これに反する傾向が強まっている。安全だった日本は、オウム事件で安全神話が崩れ、最近の住居のピッキング犯はなかなか逮捕できない。勤勉さや技術力も教育の失敗であやしくなってきた。行政機構も各省や警察の不祥事で揺れている。その一方で、最近はデフレ傾向で物価は下落しつつあるが、各国の水準に比して生活費はなお高い。長年の英語教育にもかかわらず、英語はなかなか社会に浸透しない。

 これらの課題の解決の方向が見えてくれば、日本はまだまだ良い国として、21世紀にも現在程度の繁栄を続けていると私は思う。われわれの子供の世代には、是非ともそのような国になっているように、心から願うばかりである。ただし、実はあと一つだけ心配がある。それは、日本人の出生率の低下傾向である。このままでいけば、21世紀の終わりには人口がゼロになるとの冗談のような試算もあるほどの、深刻な事態である。教育しようにも、その対象となる国民がいないのであれば、ああ何をかいわんやであろう。

(平成12年10月28日著)
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(注1) 「英国病の教訓」(1978年1月30日初版、1979年12月15日第七版より、PHP研究所刊)http://www.glocom.ac.jp/proj/kouyama/all/A_folder/A78_01_30/A78_01_30p010.htm によると、英国における本質的な病理症状は、第一に社会の自由で創造的な活力の低下であり、第二に自立精神の衰弱と国家への依存心の増加、自由な競争原理の崩壊と国家の肥大化であり、第三に、エゴの拡大とモラルの低下であり、第四に国家社会の意思決定能力の低下であるという。
(注2) 1996年の論文。日本経済新聞・平成12年10月26日 朝刊第一面)



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