This is my essay.




 最近、ふとしたことで、昔の出来事が色鮮やかによみがえることがある。きのうもそうだった。私の家の近くに、実にかわいい教会がある。その前を通り過ぎたときに、ご老人で、白髪がベルのように垂れた人が出てくるのに気づいた。ふさふさ揺れるその見事な白髪を眺めているうちに、私の意識は、30年以上も前にタイムスリップしたのである。

 私の通っていた県立高校に、これと全く同じ髪型の老先生がいた。口べたで寡黙な人だったが、授業は一風変わっていた。チャイムが鳴り終わるや否や教室に現れて、いきなり黒板に五線譜を書き始める。それも、片手に三本のチョークをはさみ、それで黒板の隅から隅へと一気に三本の平行線を書き、とって返すときに今度は二本の平行線を書く。それから、目にもとまらずの早業で、音符を書き始め、ものの五分もしないうちに書き終わる。それで、「これを歌える人は?」と聞くのである。最初は、何が起こったのかと思った。何しろ、数学の時間なのだから。

 私のような音楽音痴が目を白黒しているうちに、音楽や歌の得意な生徒が
「はぁぁーーい」と返事をして、実にうまく歌う。それを先生は、そのうまさの度合いに応じて、「よしっ、二回抜かし」、「うぅーん、まあまあ、一回だな」と評する。それで満足したかのごとく、ゆっくりと五線譜を消して、今度は数学の問題を二問ほど書くのである。

 それで、
「きょうはだれの番だ?」と聞く。すると、席の順番に従ってその日に当たった生徒がしぶしぶ出ていって、その問題を解くのである。それが結構むずかしくて、半数以上の生徒が黒板を前にして立ち往生するほどであった。ところが、さきほどの五線譜が歌えた生徒は、その先生の評した成績に従って、一回や二回、この回答役の順番をパスすることができるのである。いやまあ、音楽のような、数学のような、とっても不思議な授業であった。

 私のような生来の音痴は、歌を歌うどころではないので、もっぱら数学の問題を解く組であった。ところが、何の恩恵なのかは知らないが、中には数学もできれば歌も得意という才能に恵まれているヤツもいて、「きょうは歌でいこうか、それとも数学にするか」などという実に贅沢なことを言うのもいた。私に言わせれば、何と神様は不公平なのだろうと思うのであるが、ともかくこういう連中は、くやしいことに、いずれもよくできた。

 何でも私がびっくり仰天したのは、先生の書いたスコアで、私をはじめクラスの全員がちんぷんかんぷんだった代物を、ある女の子だけが待ってましたとばかりに、
ハイっと高く手を挙げたことだった。その子は、美人ではあったか、ともかく大人しくてめったに人と話しをしないタイプだったので、クラスの皆は一瞬なにが起こったのかと驚いた。ほかに誰も手を挙げる人がいなかったので、その子がすっくと立ち上がった。

 そして、透き通った実に美しいソプラノの声で、
Adeste, fideles, laeti triumphantes...と歌い出したから、クラス全体がどよめいたのである。Venite, venite in Bethlehem. Natum videte Regem angelorum.」、「Venite adoremus, venite adoremus, Venite adoremusときて、最後にDominumと締めくくった。終わったところで、クラス全員立ち上がり、拍手かっさい雨あられである。その女の子は、頬をちょっと赤く染めて、ふんわりと席に座った。どうも、これは賛美歌だったらしくて、先生が五線譜にラテン語らしき言葉を書き添えて、さあ、一緒に歌おうということになり、その子が先導して一小節ずつ歌い、ついにクラス全員で合唱と相成った。

 三つ子の魂ではないが、私はなんと、まだこの歌を覚えていて、いまでも歌えるのである。30数年前のたった10分間ほどの出来事ではあったが、脳裏にまざまざと甦ってくる。短い体験ではあったが、人生で最も感動した場面だったのだろう。それから20数年たって、ドイツのバイエルン州を旅行中に、とある田舎の教会に入ったところ、ちょうどこの賛美歌を歌っていて、私も思わず口ずさみ、周りの人が振り返った。

 私は、数学の成績はさっぱりで、いまとなっては何にも覚えていない。あれだけ方程式だの定理だのと習ったはずなのに、私の頭の中からは、その記憶がきれいさっぱり抜け落ちている。ところがこの賛美歌だけは、一字一句間違えずにまだ歌えるし、思い出すたびに新鮮な感動が呼び起こされるのは、自分でも不思議である。時間の垣根を超えて、それだけ自分の心の中で大きな財産になっているようだ。あの高校に通って、本当によかったと思っている。

(平成14年 5月26日著)
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