悠々人生のエッセイ








 いよいよ21世紀になった。といっても、別に天空に「21」と書いてあるわけではもちろんないし、回りを見渡しても、普通のお正月の風景があるにすぎない。しかしそれは、私の小さい頃のお正月とは一変して、実に簡素極まりない風景なのである。年寄りの回顧趣味かもしれないが、昔と今のお正月の姿を比べてみたい。

 まず、今から40年近くも前のお正月は、前年の暮れに父と私が餅つきをし、母が妹たちとせっせと「お節料理」なるものを作って用意しておいた。これらはお正月を言祝ぐ食べ物であるという以上に、元旦から三日まではすべてのお店が休みとなるので、こうした保存食しか食べられなかったという実際上の事情もあったのである。煮物、きんとん、黒豆、おすばえがお節料理のおかずで、これに主食のお雑煮から成る。煮物は、父の出身地特有のもので「煮しめ」といい、ぶり、大根、タケノコ、ふき、こんにゃく、がんもどきなどをたくさん入れて、お醤油で煮込んだものである。ひとつひとつの具が大きいので、それは豪快な食べ物である。お雑煮といえばその地方でいろいろな作り方があるが、母の出身地のお雑煮は、昆布だしの白味噌の中に、丸い餅と薄く切った蒲鉾が入っているという至ってシンプルなものである。三が日はこれらを食しつつ、親類や友人の家を訪ねたり、訪ねられたりしたものである。また、床の間の三方上の大きな鏡餅には昆布、蜜柑、しだ、干し柿などが飾られて、非常に存在感があった。

 外へ出ると、どの家も玄関には大きなしめ縄を飾っていて、路上には和服の晴れ着を着た人が行き交っていた。私はその中で手作りの凧をもって空き地に駆けていき、そこで思い切り走って凧を空高く上げたものである。凧は、竹を真四角に組み上げて作ったもので、白い紙を貼って好きな絵や字を書き、その下には新聞紙を細く切った二本の足を付けていた。バランスが悪いと、空へ上がらずにくるくる回って地面に落ちていってしまうので、私にとってはその年の占いのようなものだった。また、妹たちは、羽子板で遊び、羽根を落としてしまったら、顔に墨を塗られて笑っていた。

 ところが今では、お節料理を作るのは省略。それより、都内であればどこかのホテルに行った方がよほどおいしい食事にありつけるし、お正月の飾り付けもすばらしいので十分に雰囲気を味わえる。鏡餅といえば、近くのスーパーで買ってきた小さなお餅が、ちょこんとテレビの上に乗っているだけである。道を行き交う人々も、晴れ着を着ている人は、ほとんどいない。それでもついこの間までは会社や官庁の仕事始めの日には振り袖の女性をよく見かけたが、今年は全くといってよいほどいなかった。もちろん、凧を上げている子供や羽子板遊びをする女の子などは身の回りに一人もいない。私の友人のM氏も、「自分は相変わらず車の前に小さな注連飾りを付けているが、最近ふと気が付いてみると、そんなことをしている車は全体で一割くらいになっていた」という。

 これは、何を意味しているのだろうか。日本全体に、昔からの季節の風習がなくなりつつあるのである。お正月、節分、雛祭り、端午の節句、お盆、中秋の名月などなど、かつての日本人はごく当たり前にそれぞれの行事を祝い、巡ってくる新たな季節を肌で感じていたのである。お正月はお盆とともに、遠く離れて働いていたり勉強していたりする人々が古里に帰ることができる唯一の機会で、一年の中で最も楽しい懐かしい時期であった。その間はほとんどの店、事務所、工場が休みとなり、こうした国民的な骨休みを支えていた。しかし、今や元日からスーパーが営業する時代である。真夏の最中のお盆にしても、古里に帰って一族郎党とともに灯籠を川に流して先祖を偲ぶことより、夏休みだから海外に出かけて遊んでくる人も多い。

 これらの二大行事がこういう無惨な状況であるから、ましてやその他の行事はほとんど忘れられている。節分の意味を知らない若者が増えたし、雛祭りはわずかに雄雛と雌雛だけを飾るだけだし、都会の家の端午の節句ではわずか1メートルくらいの悲しいほど小さな鯉のぼりしか飾ることができない。お盆の灯籠流しなどは汚染につながるということで都会でも稀になったし、中秋の名月で三方に白いお団子を置いてからススキの横でこれを食べようとするのは、私より上の年代の人たちである。

 その代わりというと、変な気がするが、日本人はクリスマスが大好きである。私のマンションでも、日本の行事には全く無関心であるのに12月になると喜び勇んでクリスマスツリーの飾り付けをする一家がいる。「あなたの家はクリスチャンですか」と聞いたことがあるが、「いや、全然」と答える。面白ければ、それで良いではないかということだろうが、どうにも腑に落ちないところである。12月中下旬には庭の木に電飾を付ける家も増えた。

 そういえば、いつの間にか2月14日にバレンタインを祝うようになった。いや正確には、お菓子屋の宣伝に踊らされて女性が男性にチョコレートを贈るという馬鹿げたことを始めた。だいたい、「男がそんなにチョコレートを食べるものか、好きなら別のものを贈った方がずーっと効果がある」と思うのであるが、どこをどう間違ったか、バレンタインという聖人は愛の神様だからチョコレートを相手に贈れば御利益があるということになったらしい。うちの男の子は、小学校時代のある年、たくさんの同級生の女の子からチョコレートを山ほどもらって上機嫌であったが、すぐにお返しを全員にしなければならないということに気が付いた。これではわずかなお小遣いではとても足らないので、翌年には「どうか自分に贈らないでほしい」とお願いしてまわったという笑うに笑えない話もあった。しかし、よく考えると、ちょっとうらやましい気もする。

 それはともかくとして、こうした現象は、日本全体としては次第に伝統文化が廃れていき、洋風化が着実に進んできている証左ではなかろうか。だとすれば、この先、日本はどうなっていくのだろうか。大いに気になるところである。それにつけても思い出すのは、アメリカでの経験である。

 私はあるとき、サンフランシスコに出張した。仕事が終わってホテルに帰り、ソファにどっかりと座ってテレビをつけた。すると、海岸に大勢の東洋系の子供がいて、先生らしき人の説明に熱心に耳を傾けていた。それは中華学校の子供たちで、先生は「100年前にこの海岸に上陸した中国人のクーリーたちは、まさにこの場所で虐殺された。決してこの歴史を忘れてはならない」と説いているのである。私は、思わずははぁと感心した。現代の日本人には、このような民族的「しつこさ」が全くないのである。アメリカに渡った日本人たちは、日本人としてのアイデンティティを簡単に失ってしまって、ただちにアメリカに溶け込んでしまう人がほとんどである。それに対して、とりわけ中国人たちには、簡単に溶け込む人はそんなに多くない。アメリカの言葉や習慣には慣れても、民族的アイデンティテイを日本人のようにいとも簡単に失うわけでは決してないのである。

 これは、ひとえに民族教育、とりわけ歴史教育の違いであると私は思う。上にのべたような中華学校式の教育を続けていれば、そう簡単に民族的アイデンティティを失うはずがないのである。戦前の日本は、特に昭和に入ってからは間違った国粋的民族意識の元で凄惨な戦争に突入してしまった。こうした愚行は再び繰り返してはならないが、しかしそうかといって、日本人の長い歴史と文化を等閑にしてはならないのである。私のいう民族教育とか民族的アイデンティティとは、決して戦前のような偏狭かつ狂信的なものではない。世界で尊敬される固有の文化と歴史を持ち、勤勉、努力、誠実という優れた個人的資質を誇ることのできる歴史と民族性を教えることなのである。ところが戦後の日本は、戦争の反省からこういう教育を意識して捨ててきた。また、家庭でもそういうことを教えることをしなかった。亡き司馬遼太郎氏は、特に明治期の人々と比べて昭和期初頭の軍事国家下の日本人は醜くい存在であったが、民族性ほ失いつつある現代の日本人はそれどころではなくもはや化け物に近い存在であるとまで評した。私も一時はそれと同じ感想を持ったことがある。

 しかし、こういう気持ちは、あるいは20世紀の遺物なのかもしれない。何しろこの21世紀は、国家や民族という垣根がとても低くなる時代なのである。国境を超えた移動も、世界のどの大学で勉強することも、また能力さえあれば地球上のどの都市で仕事をすることも自由自在となる。その結果として、世界は英語をあやつる高度な専門職や能力あるビジネスマンが社会の上流を占める世の中となるであろう。いや、現にそうなりつつある。私はこれらの新たな支配層を新世紀のコスモポリタン層と名付けたが(「新しい世紀を迎えて」を参照)、ひょっとすると、民族的アイデンティテイを簡単に捨てられる現代の日本人こそ、それにふさわしい人種なのかもしれない。これが日本という国家と日本人にとって良いことか悪いことかは直ちには言い難いが、近頃はどうもそのような気がしてならないのである。


 ただ私の経験では、特にアメリカ人の知識層と付き合うときに、先方から尊敬される外国人のタイプには二通りのものがある。第一は、一般のアメリカ人以上に英語の学識やタイトルがあり、アメリカ社会に通じているタイプである。英語の発音と語彙が完璧なハーバード大ロースクール出の弁護士のようなものである。これは、先方の尺度でも申し分のない経歴であるから、一目置かれるるのは当たり前である。第二は、アメリカ人には新鮮で魅力的な知識や文化を持っているタイプである。禅、生け花、柔道などがそうであったし、最近ではもう少し専門化してしまって、浮世絵、陶磁器、江戸文化などいろいろである。寿司などの日本食はヘルシーだとして、その料理ができると珍重される。もう少し年代を下ると、アニメも有名らしい。

 要するに、先方の土俵で一流であるか、それとも各自のバックグラウンドとなるそれぞれの文化的知識を有しているかどうかが問題なのである。ところがコスモポリタンたる多くの日本人は、もちろん日本で育ったのであるから、いかにアメリカに留学して勉強したとしても、彼らにとって所詮はアウトサイダーにすぎない。そこで狙い目は、上記の第二の道となる。こうした事情は、いかに国際化が進んでいこうとも、それほど変わりがないはずである。とすると、コスモポリタンたる日本人が国際的に活躍するためには、日本固有の文化をその背中に背負っている人材であることも、また大切な要素であると思う。そういう意味でも、伝統文化をさっさと捨て去って忘れていく現代の日本人には、一種の危うさを覚えるのである。


(平成13年 1月13日著)
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