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 家内と、まだ見たことがない佐原の町に行ってみた。佐原といえば、伊能忠敬翁(好みによっては、長嶋茂雄氏を挙げる人もいるかもしれない)出身の町として有名だが、関東近辺では、西の川越とともに、小江戸と並び称される。地理は、坂東太郎といわれる利根川の沿岸にあり、千葉県の北端に位置する。この近辺の物資の集積地として古くから栄え、水運業だけでなく、酒や醤油の醸造元が数多くあったという。町を二分するように小野川が流れ、その両脇に古くからの商家が立ち並んでいる。川岸には柳の並木が植えられ、その有様は、瀬戸内海の倉敷の旧市内を彷彿とさせる。

 その小野川を舟で遊覧させてくれるようになっていて、伊能忠敬翁の屋敷跡から出発し、川を少し遡ってJRの線路付近まで行き、引き返してくる。きょうは土曜日なので、町内の有志が、佐原祭の太鼓と囃しの音を聞かせてくれる船が仕立てられた。両岸には、その賑やかな祭囃子に観光客が聞き惚れて、私たちもそのひとりとして欄干に肘を乗せてうっとりしていた。

 7月の夏祭りと10月の秋祭りには、それは見事な山車がたくさん出るようで、その山車を格納してある水郷佐原山車会館に行ってみた。ここには三つの山車が展示してあるだけだが、それでも、高さ6メートルの山車を間近に見ると、誰もが異口同音に「わあ、大きい!」と口に出す。ヤマトタケル尊などは、我々も江戸祭で見慣れているが、ここには縄で作られた大鯉があって、実際の祭りでは、縄製のタカとともに、あまり例を見ない山車となっている。特にこちらの大鯉は、ビデオによると、祭りの間には、口をパクパクさせているようで、それが何ともチャーミングに見える。今度、秋祭りを見に来よう。

  さて、伊能忠敬翁の話に戻るが、翁は1745年に生まれ、1818年に73歳で没した江戸時代末期の人で、酒や醤油の醸造それに貸金業を営む伊能家に婿養子に入ったあと、50歳ころまでは商人として活躍し、財産を築いた。そののち、家督を長男に譲って江戸に出て、江戸幕府の天文方だった高橋至時に師事し、測量と天文観測などを修めた。ちなみに高橋至時は、忠敬の19歳も年下であったという。寛政12年(1800年)、56歳の時に、思わぬチャンスが訪れる。幕府が、子午線の長さを測量しようと計画した。忠敬は、私財をも投げ打ち、この第1次測量を遂行した。それが非常に精緻なものだったために、次第に幕府も力を入れるようになり、最終的には、大日本沿海輿地全図を作成した。これは、今から見ても相当な精度であり、明治期になって現代的な地図が作られるまで、近代日本を代表する地図となった。しかし、その本当の評価を受けるのは、忠敬の死後40年を経過したのちのことである。

  伊能忠敬翁の足跡を地図上でたどってみると、北は北海道から南は九州まで、実に何万キロという距離を、テクテクと自分の足でよく歩いたものだと感心するばかりである。20歳台やら30歳台ならばともかく、これを56歳から始めたというのは、どれほど大変なことか・・・、しかも、単に歩くだけでなく、歩数を数え、測量をし、それを細かい字で記録しながらのことであるから、いやはや、偉業というべきか、艱難辛苦の果てというか、これを評する言葉もない。比叡山廷暦寺の千日行すら、この偉業の前には、色褪せてみえる。単に、脱帽して最敬礼するのみである。

            (2008年9月27日記)




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